先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
津和野に行きたくなりました・・・大きくて見事な紅色の花の百日紅ですね~。
漆喰の白壁に石州赤瓦がよく似合っています。
きっと、いつの日か花菖蒲は咲いて、川にはいつも錦鯉が泳いでいるのでしょうね~
景色は刻々と変化してゆきますが、人情だけはいつまでも変わらないで欲しいですね…
「つわぶきの里」伝説
津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれています。
遠い昔、山紫水明 のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・ 「つわの」と呼ぶようになったという。
現代の「つわぶきの里」SLの紫煙、そして森林の上の朱色の鳥居。まるで、石州赤瓦のためにあるような景色ですね~田んぼの緑も目に鮮やかです。
このような伝説をもつ当地域の歴史は古く、縄文時代までさかのぼる。町教育委員会の調査によれば、今から約1万年前の縄文時代早期から人々が住んでいたことが確認されています。
これまでに町内各所で遺跡が発掘されており、石斧、土器、石器などが採集されています。
これらの発掘により、当地域は縄文時代後期には九州文化圏の影響 を受けていたこと、そして、約1700年前の古墳時代前期の土器により当時、山口地方と山陰地方を結ぶ交通の要所として両方の文化が交流する重要な場所で あったことなどが分かっています。
また、平安時代の前半頃(約1200年前)の土師器や須恵器、緑釉陶器とともに、4枚の承和昌宝という銅銭も発見されており、承和10(843)年には能濃郷の成立、稲作の水田開発が進み、津和野川流域で集落が形成されたことがうかがえます。
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はたの楠
人も動物も疲れた時は大木の下で宇宙の気(霊気)を感じながら一休み~。
大木の向こうには、石州赤瓦の集落(日原の里)が…津和野では、石州赤瓦がいたる所で使われています。
乙女峠のマリア聖堂
キリシタン殉教の悲話を伝える、聖母マリア出現の聖地
マリア聖堂は、その愛らしい名前とはうらはらに、キリシタン殉教の地である乙女峠に建つ石州赤瓦の聖堂。昭和26年建設。
キリスト教が厳禁だった明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンは、津和野藩の改宗のすすめに応じず、ついに拷問によって36人が殉教の道を選びました。
その際、日本で唯一、聖母マリアが降臨された地といわれています。
ステンドグラスにはその悲しい様子が描かれています。
津和野駅から徒歩20分 見学無料
TEL 0856-72-0251 (津和野カトリック教会)
地頭職吉見氏の着任と津和野城の完成
弘安5(1282) 年、元寇警備のため能登から石見に入部した地頭職吉見頼行は着任後、津和野城の築城にかかり、正中元(1324)年、二代頼直の代に約30年の月日をかけて 本格的な山城を完成させました。その後、吉見氏は大内氏家老としてその傘下に入るが、主家の大内義隆が家来の陶晴賢に討たれてしまう。
11代吉見正頼は、弘治元(1555)年に毛利元就と計り、陶晴賢を滅ぼし、以来、吉見氏は代々毛利氏の武将として西石見二郡、長門阿武郡を所領する。吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつあった。
坂崎出羽守の入城と津和野発展の礎づくり
慶 長 5(1600)年、関ケ原の戦で西軍が敗退すると、14代吉見広行は主家の毛利氏の 萩移封にしたがい津和野城を坂崎出羽守に明け渡し、萩に退転しました。
「千姫事件」で知られる坂崎氏は備前宇喜多氏の一族であり、在位16年の短期間に津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いた名君でありました。
山陰の小京都 津和野
慶長5(1600)年関が原の戦いで東軍に味方して勝利を収めた坂崎出羽守によって築かれた城下町です。坂崎家はいわゆる千姫事件で失脚、元和3(1617)年因幡の鹿野城主であった亀井政矩は入府し、以後明治維新までの250年間にわたって津和野藩4万3千石を収めました。
初代政矩は、産業振興に力を入れ、特に和紙の生産を奨励。4万3千石の小藩であったが実質15万石という経済力を持つまでになります。現在、石州半紙はユネスコ無形文化遺産、国の重要無形文化財に指定され、日本有数の和紙として世界でも人気を集めています。
城と城下町は、坂崎出羽守によって16年にわたって、典型的な近世城下町として整備され、町内用水路など見事な町造りがなされています。
街の周辺に今も残る段々状の畑は、家老多胡主水の名をとって主水畑と呼ばれ往時の産業振興の基盤整備を偲ばせる風景です。
青野山カルデラの恩恵
津和野の中央にたたずむ青野山の火山活動により、大きな窪地(カルデラ)として津和野盆地が産まれた。
火山灰土壌は水はけがよく、特に「笹山の里芋」はキメが細かく絶妙。
また津和野は古くから茶の栽培が盛んな島根の茶どころ。日本茶の他、ざら茶・まめ茶も人気が高い。
そしてこの伏流水と盆地の厳しい気候が育むのが津和野の地酒。現在も昔ながらの手法や伝統を守り、三つの蔵元が腕を競う。
青野山の手前に石州赤瓦の屋根の集落が見える。更にその手前は津和野茶の茶畑です。
名古屋は周辺地域から様々なお茶が入荷します。岐阜・飛騨から白川茶、静岡から静岡茶・天竜茶、三重から伊勢茶・朝宮茶・伊賀茶、京都から宇治茶、そして抹茶は愛知の西尾等々、まだ一度も島根・津和野のお茶を飲んだことが無いので今度飲んでみます。読者の皆さんも是非一度ご賞味下さい。さてお味は・・・水が良いということはきっと美味しいんでしょうね~
津和野の城下町は、JR津和野駅の東南にあたる殿町を中心にして本町、祇園町、魚丁、久保丁、稲成丁などへひろがっています。造り酒屋をはじめ殆どの家が伝統的な和風の佇まいで、落ち着いた城下町がそのまま現代によみがえったかのようです。
津和野の伝統的な町家は、中二階建てもしくは二階建て、平入りで石州瓦の赤と白漆喰の袖壁、虫籠窓や格子窓が、やさしく調和しています。
重要伝統的建造物群保存地区について
津和野町津和野(武家町・商家町)
切妻、中二階建て、平入の石州赤瓦の伝統的な家屋が城下町の風情を残す。
津和野は、島根県の最西端に位置し、周囲を山々に囲まれ、津和野川沿いに町並が展開しています。保存地区内の道や区画は、江戸初期に整備されて以降、大きな変化はなく、「殿町通り」付近の旧武家地と「本町通り」を中心とした旧町人地が併存しています。
幕末から昭和初期にかけて形成された石州赤瓦葺の建造物群の中に、洋風建築であるカトリック教会などが町並みに変化を与えています。
津和野では,登録有形文化財制度の活用を通じて建物保存への意識高揚を図ってきましたが,平成25年8月の重要伝統的建造物群保存地区選定により,補助制度を活用したまち並み保全への取り組みが始まりました。
石州赤瓦の町並み「本町通り」。道幅もゆったりとして気持ちが良い空間ですね~
建物だけでなく,町家の暮らしなど地域の魅力の再発見なども相まって,これまでは殿町通りにしか集中しなかった観光客も保存地区全域へ広がりをみせ,空き店舗の修理・修景事業の活用により新たな事業を始める事例も増えてきました。
平成28年度に「津和野まちなみ保存会」が発足し,情報誌を発行して情報の共有化に努め,視察対応や防災計画策定への協力など地区民のまち並み保全に対する意識が次第に高まってきています。
続く・・・
石州瓦物語(続編)では、特に、これまでご紹介した石見地方(浜田市、大田市、江津市、益田市)以外の市・町・村や県外の石州赤瓦施工例をご紹介いたします。
一通り終わりましたら再び津和野の町に戻り観光のご紹介をしたいと思います。
最後に、「縄文と赤」と聞くと真っ先に頭に浮かぶのは、芸術家「(故)岡本太郎」氏。
以前聞いたお話をご紹介します。
Q、岡本先生は何色がお好きですか?一般的に大人になると色の好みが変わってくるんでしょうか?
僕はそういうことはないです。僕は赤が好きなんですけどね、それに対抗するブルーとか。
あらゆる色が好きですが、特に赤が印象的な理由は、赤というのは、命そのものみたいなところがありますよね。血液の色、血だらけになった時などの。そして赤は死を意味するし、また逆に生きてることも象徴するしね。原色は昔からずっと好きです。
Q、パリ以外で、印象に残っている日本の町は?
大分ですね、母の生まれ故郷で子供の頃疎開していたからね。
Q、そう言えば、大分駅の南出口正面の薬局のビルの壁面が岡本先生の作品でビックリしました。薬局のご主人に尋ねると「間違いなく岡本太郎先生の作品です。断られて元々と思って手紙で依頼したところ、大分は母のふるさとだからといって引き受けていただいたのには、依頼したほうが本当に驚きました」って言っておられましたよ。
他には『何だ、これは!』という町はありませんか?
そう。そんなに喜んでもらえれば嬉しいですね。
う~ん。新潟や…特に印象に残っているのは、出雲大社や石見銀山のある海に面したすべて赤で統一された瓦屋根の町とそれに対抗する日本海の深い青の海の色です・・・
続きは機会があればご紹介いたします。
今は亡き、しかしいつもお側に感じる岡本太郎先生を偲びながら〜 合掌
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605
石見観光振興協議会事務局
〒697-0041島根県浜田市片庭町254島根県西部県民センター内TEL.0855-29-5647
一般社団法人 津和野観光協会
〒699-5605島根県鹿足郡津和野町後田イ71-2 TEL:0856-72-1771
公益社団法人島根県観光連盟
島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内) TEL:0852-21-3969
一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950
津和野町 〒699-5292 島根県鹿足郡津和野町日原54番地25 電話0856-74-0021
江津市役所 〒695-8501 島根県江津市江津町1525電話: 0855-52-2501
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
ごれまでの石州瓦物語を下記にリンクいたしましたのでご興味のおありの方はご覧下さい。
ZIPANG-2 TOKIO 2020
石州瓦シリーズ全編 リスト
12件(外伝含む)です。
1. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5322543 〜石州瓦物語(その1)~
「瓦の起源は、古代中国 今から2500年前の春秋戦国時代」
2. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5325788 ~ 石州瓦物語(その2)~
「瓦のルーツを探る 日本での鬼瓦のもつ意味は、ルーツと同じで厄除け・魔除けです。」
3. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5350198 〜石州瓦物語 (その3)~
「日本各地に残る城下町の瓦の殆どはいぶし瓦」
4. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5363971 ~石州瓦物語(その4)~
「石州瓦が200年に渡って守り続けている町並み石見銀山『大森町』」
5. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5378883 ~ 石州瓦物語(その5)~
「石見銀山・大森町それは黄金の国、ZIPANG語源の始まり、日本国の代名詞であった!」
6. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5397811 ~ 石州瓦物語(その6)~
「8代将軍徳川吉宗の瓦葺奨励策 ~ 江戸南町奉行大岡越前守活躍あり~」
7. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5404528 ~石州瓦物語(その7) ~
「日本三大産地の一つ『石州瓦』のルーツとは・・・」
8. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5421758 ~石州瓦物語(その8)〜
「石州瓦の誕生。それは良質な陶土とさらに『来待(きまち)石』という名の釉薬の存在にあり!」
9. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5458237 ~ 石州瓦物語(その9)〜
「石州瓦と北前船の日本海側『表日本』の時代が再びきっとやってくる‼」
10. https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5512463 ~ 石州瓦物語(その10)~
「~赤瓦の映える景観~ 地域の潜在的資源を活かした創造・再生・継承のまちづくり
【寄稿文 山本雅夫】」
11. 外伝 https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5442218 ~石州瓦物語(外伝)~
「瓦の殿堂・グラントワ 【寄稿文】若槻真治」
12. 外伝 https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5496350 ~石州瓦物語(外伝)~
「石州瓦は赤瓦だけじゃない!『ブラタモリ 出雲(いずも)』【寄稿文】佐々木啓隆」
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