先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
東西に長い島根県のちょうど真ん中に位置する大田市は、古来、石見と出雲を結ぶ交通の要衝として大切な位置を占めてきました。戦国時代に石見銀山が開発されるとその重要性はいっそう高まり、町場が形成され商人・職人の町として発展してきました。室町時代末期から鍬市・竹市が立ち、稲荷神社には稲荷市が立ち、今も100を越す露天商で賑わう春と秋の彼岸市は、多くの買物客で賑わいます。
また、大田市街地の北東、日本海の海岸線に面した波根は、美しい景観と潮騒が誘う江戸時代からの港町。 かねてより海辺の行楽地として親しまれ、新鮮な魚介を使った郷土料理「へか焼き(魚介版すき焼き)」、海鮮バーベキューなどを味わうことができます。
かって日本に繁栄をもたらした世界文化遺産「石見銀山・大森町」夢は再び蘇る!
信仰心に厚い「石見銀山・大森町」町を守る石州瓦の家並み。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
石見銀山「五百羅漢」四季の彩を魅せる石橋、まさか銀の橋⁉
「五百羅漢」は夢の橋を渡り現地で是非ご覧ください!春夏秋冬どの季節もお勧めです。
プラタレアスという名の島 日本
タルタリア図
アントワープ生まれの地図製作者オルテリウスが1570年に出版した世界地図帳『世界の舞台』に所収されたモンゴル周辺、タルタリア族が住むといわれていた地域を描く地図。日本はアジア大陸と北アメリカ大陸のほぼ中間に東西に長い島として描かれ、その形はアジア図とほぼ同じです。
※タルタリアの語源とはタタール又はタルタル(韃靼)…つまり、明代モンゴル族の呼称からきています。当時の日本はモンゴル族と見なされていたようです。
中世16世紀といえば世界は大航海時代。スペイン、ポルトガルなど欧州列国が世界の海に挑み、冒険と交易を繰り返した時代。
“プラタレアス”という、世界中に知られた名前がありました。
“プラタレアス”それは“銀の島”、それは日本の事を指していました。
近世、マルコ・ポーロによって
"ZIPANG"と呼ばれた日本を西洋諸国は黄金の国だと夢想しました。その源を築いたのは、当にこの石見銀山から始まっていたのです。
“銀の島”、それは日本です。
石州の赤瓦で守られた日本近世の大森町の家屋群
石見銀山大森町西性寺「鏝絵(こてえ)」を守る石州瓦。
※鏝絵とは漆喰で壁にレリーフ状に絵を施す技術で当時、伊豆半島松崎に住む左官職人、入江長八が大成させた。(余談ですが、静岡県の西海岸「松崎町」からの世界遺産「富士山」の眺めは、日本一との評判です。)
大航海時代は、歴史上はじめて、世界の国と地域が交易という一つのシステムによって繋がった時代。異文化が交わるためには世界共通のシステム「世界中が認める統一商品≒貨幣」が求められます。16世紀においては、銀が世界の共通商品でありました。
16世紀初頭、スペインが「日の没することのない大帝国」を築くことができたのはペルー、メキシコの銀鉱脈を手に入れたことが最大の要因と言われるように、 当時の列強は、銀獲得にしのぎを削っていたのであります。
石見銀山のそばにある新大森トンネル入口の「石州判銀」を表したもの
「石州判銀」とは、銀山で生産された灰吹き銀の品位を目利きするための見本の銀として使われていたものです。「石州」 の 「州」 という字が 三つの 「刀」 でかかれています。
石見銀山 丁銀3点(左から文禄石州丁銀、御取納丁銀、御公用丁銀)
そのペルー、メキシコに遅れること半世紀後、銀産出の主役は日本に移り世界で流通する銀の1/3を占めるまでに成長する。そしてその大半が石見銀山でした。
石見銀山・・・。現在の島根県西部の石見地方に位置するこの遺跡は、大半が山と谷あいに眠ったままで、発掘調査されているのはわずか0.1%に留まっています。しかしながら、わずかばかりの発掘遺跡と、きちんと残されている近世の街並みが、往時の栄華の跡を偲ばせています。
石州瓦と石見銀山の関わりは江戸時代の初め頃から。石見銀山御料地が幕府直轄の天領となり、天領支配の町づくりがなされてからであります。
現在の石見銀山大森の街並みは、西暦1800年の大森大火の後再建されたもので、石州の赤瓦で守られた日本近世の家屋群が見事なまでに残されています。
石見銀山発見伝説
推古天皇の28年(621年)、銀山の主峰仙の山山頂、俄に光をはなち、霊妙仏が現れたという伝説がある。人々は恐れおののき、山頂に出来た池を朝日ヶ池と尊称し崇めたといわれる。あるいはこれが『銀が隠されている』という天の啓示、銀山発見の始まりだったのかもしれない。
推古天皇から下ること700年の延慶2年(1309年)、周防の大名大内弘幸が不思議な夢を見る。大内家の守護神、北辰の神が枕元に立ち『石見国仙の山に宝有り、汝銀をとりて外敵を排せよ。』
当時大内弘幸は鎌倉幕府の執権北条貞時と対立、一進一退の攻防を繰り返していた。そんな彼にとってこの夢はまさに百万の味方を得たに等しい。
果たして仙の山は、山肌を白銀に染め、まばゆいばかりの光沢がはるか日本海にまで達していた・・・。現在、これが石見銀山発見の定説となっています。
大内弘幸の夢から217年後の大永6年(1526年)、博多の豪商神谷寿貞は、出雲大社裏の鷺浦銅山を購入すべく船で日本海を北上していた。石見沖に差し掛かった時、寿貞は陸地から発せられる光に目を奪われます。彼はいそぎ上陸、光を目指して山中深く入り込んでゆく。彼を迎えたのは銀塊が山と積まれていた清水寺であった。
博多の豪商神谷寿貞を導いた「清水寺」
伝説の銀山発見の知らせは、当時西国一の大名と謳われた大内義興に伝えられました。最初の発見者大内弘幸から数えて8代後のことであります。
大内義興は、代々の言い伝えが本当であったことを知り、すかさず大軍を石見に派遣、たちまちのうちに石見銀山を手中に収めました。
大内義興は神谷寿貞に銀山開発と経営を依頼、本格的な銀山開発が始まりました。
この時から、石見銀山は歴史の表舞台に登場、銀山争奪の戦乱と開発ラッシュ、文字通り栄枯盛衰の歴史ドラマを展開することになるのでした・・・。
参考 1
仙ノ山(せんのやま)
大森の町並みの南、銀山地区の東にそびえる標高537mの山。
大永6年(1526)に、博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)が日本海を航行中、光り輝く銀峯山(ぎんぷせん=仙ノ山)を見て銀山を発見したと伝えられています。文献「大内義隆記」では、寿禎の開発から2年後には、石見銀山が宝の山となり海外にも鳴り響き「唐土(もろこし)天竺(てんじく)高麗(こうらい)の船が来た」と外国船の到来を記しています。
銀を産出するこの山の谷には、人が住んだ跡である平坦な段が連なっています。なんと頂上近くの石銀地区(いしがねちく)と呼ばれるあたりまで平坦面があり、数多くの人が働いていた当時の様子を彷彿とさせます。
これまで3カ所の発掘現場から鉱石を砕く選鉱施設の土坑(どこう)、比重選鉱施設、それに炉跡と思われる施設など17世紀初頭の吹屋跡、中世の地層から炉跡や水路も見つかっています。
さらに、陶磁器類なども数多く出土しており、中世から近世にかけてここが銀精錬の生産工場と生産従事者の生活の場が一体的にあったことをうかがわせます。
どうやらこの山頂では、銀鉱石の掘り出しだけではなく、精錬に至るかなりの工程をこなしていたと考えられます。その人数や実態などは明らかではありませんが、石見銀山のにぎわう光景を「仙ノ山に通じる7つの谷には民家1万3千戸を数え、中国からの渡来人も移り住み唐人屋敷や唐人橋の名を残すに至った」 と「石見銀山旧記」には書き残されています。
また、最盛期を迎える江戸初期の活況を「人数20万人、1日の米消費1,500石余り、馬車の往来昼夜分かたず…」とも表現しています。銀を目指して全国から多くの人が集ったのは間違いない史実でしょう。住所:大田市大森町
参考 2
大内氏遺跡
附 凌雲寺跡(おおうちしいせきつけたりりょううんじあと)
大内氏が中世の政治、経済史上に、はたまた文化史上に占めた位置の極めて高かったことは更めて説くまでもないことであります。
大内氏が山口に居を構えたのは南北朝時代弘世の時といわれます。山口は東北西の三方に山を連ね、南に口を開く盆地状の小平野であって、その間を椹野川が南へ貫流し、中世豪族拠地の典型的な地形を示しています。街区また往時を偲ばしめるものがあるが、指定の対象は館と城との跡であります。
館は、確証を欠く憾はあるが現竜福寺境内といわれ、その南辺を東西に通る道路の大殿小路(大路)の名は、この名残とされています。竜福寺は、もと白石にあり、義隆(竜福寺殿)の庇護した寺であって、毛利隆元が館跡に移建したものと称されています。
方形状の地域であって、周辺に土塁、堀など、なお、その旧態を偲ぶことができます。この北に近く築山の跡があり、築山は教弘(築山殿)寛正六年歿の営むところといわれ、当時の記録にも屡々その名が現われますが、別墅の如き館であったと思われます。
いま、域内に八坂神社元治六年移建、築山神社明治二年移建がありますが、北西隅に矩の手に土塁が遺存するのは、居館の位置、規模を示す遺構として極めて貴重で、江戸時代の末まで苑池のあとがのこっていたといわれています。 大内氏は、その盛時、他に見るが如き城郭は設けなかったといわれますが、大内氏最後の義長は、毛利氏の来襲に備えて、山口市街の西に聳える標高338メートルいまの鴻峯に築城しました。
弘治2年春のことであるが、翌3年3月、毛利氏来攻の際、一時これに拠ったが、守り難きを察して長門へ遁れ落城しました。高嶺城といい、高嶺はまた高峯、鴻峯とも書かれ、岳山とも称されました。急峻な崖をめぐらした独立状の丘陵であって、その頂上部に、稜線上に階段状に郭を連ね配し、その最奥部、最高所に本丸を設けています。本丸は石垣をめぐらし、郭の所々にも石垣があり、眼下に山口とその周辺を収め、中世的山城として典型的なものであります。
大内氏滅亡後、山口は毛利氏の手中に入り、毛利氏もこの城を使用し、城番を置き、元和元年に至って廃した。大内氏は完成しないうちに放棄したといわれ、にわかに現存の遺構のすべてを大内氏に帰することはできなませんが、地形等より見て大内氏の旧を十分偲ぶことができます。
凌雲寺跡は、山口市街の北西、吉敷川上流の山間部にあります。寺は義興(凌雲寺殿)の開基なるべく、開山は3庵桂悟であります。舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注意すべきはその惣門跡と称せられ遺構であります。地域の南端部において台地を東西に横切るその長い石垣は豪壮雄大であって、寺院としては異例に属するものです。寺の位置、地形等から見て、盖し有事に備えての一種の城塞をも兼ねたかと察せられ、大内氏時代の特異な遺構として併せ保存すべきものであります。
通観するに大内氏滅亡後、その遺構の衰滅に赴くのは時の勢でありますが、いまここに大内氏の動静の根本をなすべき遺跡の略々たどり得られることは学術上貴重であります。
次回(その6)に続く・・・
世界文化遺産とは
世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物。
現在を生きる世界中の人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産です。
石見銀山遺跡は、環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価され、2007 年7 月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、国内では14 件目、鉱山遺跡としてはアジアで初めての世界遺産に登録されています。
石見銀山大森町の「世界遺産センター」で見学できる最盛期の鉱山町模型
石見銀山遺跡とその文化的景観 (世界遺産登録年2007年)
石見銀山遺跡は日本海に面する島根県のほぼ中央に位置し、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町 」、及びこれらをつなぐ「街道」から成っています。
生産から搬出に至る鉱山運営の全体像を示す世界遺産のコアゾーン
港と港町(写真左)沖泊
石見銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾と、これに隣接して発達した港町および港湾集落。
街道(岩見銀山街道 写真中)鞆ケ浦道
石見銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾と、これに隣接して発達した港町および港湾集落。
銀行山跡と銀行町(写真右)銀山柵内(上空から見た仙ノ山)
16世紀前半から20世紀前半にかけて操業された銀鉱山の開発の諸様相を良好に残す鉱山本体と、それに伴って発達した鉱山町および支配関連の山城跡。)
この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証であり、伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持っています。
石見銀山の大森町と鉱山町
伝統的技術による銀生産方式を
豊富で良好に残すこと
採掘から精錬までの作業がすべて人力・手作業で行われた石見銀山では、製錬工房が銀山現地に多数集まりました。今も山中には露頭掘り跡や坑道跡が600カ所以上残り、隣接してかつて製錬工房や生活の場であった平坦地が1,000カ所以上も残っています。
龍源寺間歩 ※「間歩」とは鉱山の掘り口のことです。
龍源寺間歩
大久保間歩
釜屋間歩
石見銀山遺跡の中核であり、16世紀から20世紀にかけて採掘から精錬まで行われた銀鉱山跡と、その麓の谷間に細長く存在するかつての鉱山町(大森地区と銀山地区)から成り、さらにこの銀鉱山を軍事的に守護するための周辺の山城跡が含まれています。
清水谷精錬所跡
銀山柵内と呼ばれた銀鉱山跡には、数多くの採掘跡やこれに近接して一体となる作業場跡等の生産・生活関連の要素、神社・寺院等の信仰関連の要素、山吹城跡・柵列跡・番所跡等の支配関連の要素など、相互に関連しあう諸要素がよく残り、独特の土地利用の在り方を示しています。
石見銀山 石仏
石見銀山大森町「静之窟」
石見銀山「物部神社 神殿」
石見銀山 城上神社 天井画
石見銀山 佐毘売山神社
鉱山町は南北約2.8㎞の歴史的な町並みであり、北側の大森地区と南側の銀山地区の2つの地区に区分されます。大森地区には武家・商家・寺院など、様々な身分や職業の人々が混在して居住する町並みが展開し、銀山地区には当時人々が集住したかつての町場の地割の跡や寺院などの信仰の痕跡がよく残っています。
また、銀山の周囲に点在する城跡は、石見銀山支配をめぐる攻防戦が行われた重要な城であり、日本における中世山城の構造的特徴をよく表しています。
街道
石見銀山街道温泉津・沖泊街道
銀鉱山・鉱山町と港・港町を結び、銀及び銀鉱石並びに諸物資の輸送路として機能したのが街道です。銀山が開発された16世紀前半に、銀山から鞆ケ浦に向け運搬路とされたのが総延長7.5㎞ほどの石見銀山街道鞆ケ浦道であり、16世紀後半に銀山から沖泊に向け運搬路とされたのが総延長約12㎞の石見銀山街道温泉津・沖泊街道です。
2つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残るとともに、道中には運搬に関係した伝承地、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが点在して残ります。
港と港町
石見銀及び銀鉱石の積出港が鞆ケ浦と沖泊であり、それに伴って港町として発展したのが温泉津です。鞆ケ浦は、石見銀山が開発された16世紀前半に当時の国際貿易港博多に向けて銀及び銀鉱石を搬出した港です。沖泊は、石見銀山を毛利氏が支配した16世紀後半に銀を搬出した港である。また、温泉地でもあった温泉津は、16世紀後半には沖泊と一体となって銀山で消費される諸物資の搬入地となり発展しました。
温泉津温泉の懐かしい下見板張りの建物です。洋風の下見板は明治~昭和40年代始めまでよく使われました。昭和30年代に入ると一般住宅においては、無垢から合板へと変わっていきました。特に海辺に近いところでは、タイプ1の合板なので耐水性もあり、すすんで使用されたものです。
これらの港・港町には深い湾とその奥の谷間を最大限に利用した土地利用の工夫がみられ、往時を偲ばせる船舶の係留装置や歴史的に関わりのある神社、寺院、伝承地があるほか、谷筋には街路に沿って16世紀以来の集落の土地利用形態がよく残されています。
協力(順不同・敬称略)
石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605
一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950
公益社団法人島根県観光連盟
島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内)TEL:0852-21-3969
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
メモ 世界の屋根シリーズ ースペイン瓦ー
本号の「世界の屋根」は、スペインから世界の三大美港プエルトバヌースと、南スペインのその名も太陽の海岸・コスタデルソル「マルベージャ」をご紹介します。
マルベージャは、007シリーズ初代ジェームス・ボンド役のショーン・コネリーやアラブの王様たちの別荘があることでも有名です。隣町のリゾート地「トレモリノス」に比べマルベージャというだけで、地価や物価がグーンと跳ね上がります。
南スペインはジブラルタル海峡を隔てて対岸はアフリカ(モロッコ)です。日中は、目が開けておれない位に太陽光が眩しく、建物の壁は白一色、屋根瓦(写真上)はラスター彩のようなテカリがあり茶色、所謂スペイン瓦です。特に塀や壁は色落ちして劣化が激しいので一般住宅では、年に2回、半年ごとに壁の塗りなおしを義務ずけられている町もあるほどです。写真下は分譲の別荘です。屋根瓦は、南フランス風で洒落た雰囲気の2~3色配色です。
コスタデルソルの夜空は、写真の色のように藍色で日が暮れることがありません。
街には日本でかって高級ピアノや内装材として使用された貴重な木、ジャカランタの街路樹が白い花をつけ目を楽しませてくれます。日本人に合う食べ物は、なんといっても小魚のから揚げですね。
鎹八咫烏記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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