ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 石州瓦物語(その7) ~「日本三大産地の一つ『石州瓦』のルーツとは・・・」

先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


石州瓦の伝統の町。紅がら(飛騨では、べにがら。近江では、べんがら)格子窓越しに…

石州瓦 石見銀山(群言堂鄙舎)

石州瓦「津和野と単線のSL」いつだったか?昔、乗車した記憶が、懐かしい風景……
ヨーロッパの終着駅には哀愁があり、日本の単線には何かほっとする温かさがありますね…


現在日本三大産地の一つに数えられ、生産シェア第2位の石州瓦。
その物語を進めたいと思います。


石州瓦は、その瓦伝来の系譜のなか、江戸時代の初期、全国各地で展開された城下町建設ラッシュの中、島根県西部の石見藩の城「浜田城天守閣」に葺かれたことから始まりました。


1619年、大坂の瓦師甚太郎が招かれ、浜田城の屋根を瓦で葺きあげました。
甚太郎は、瓦の製造から施工まで一貫して指導にあたったといわれています。


しかしながら、その時作られた瓦は、おそらくいぶし瓦であり、赤瓦で代表される釉薬瓦ではなかったかと考えられます。

浜田城跡


アーカイブ

(1)瓦の伝来 今から千四百年前

日本書紀に曰く・・・

『崇俊天皇元年(588年)、百済国より瓦工四人渡来す・・・。瓦窯作工、生瓦作工、瓦焼き作工、瓦葺き工四名の瓦博士である・・・。』


(2)釉薬瓦の登場

釉薬瓦は、767年、平城京の東院玉殿の瑠璃瓦が初めてと言われていますが、これは鮮やかな古瓦の出土や、緑釉、三彩釉、灰釉などの瓦窯跡の発掘で裏付けられています。


(3)いぶし瓦の誕生

日本各地に残る城下町の瓦の殆どはいぶし瓦ですが、そのいぶし瓦が日本に登場するのは、安土・桃山時代。中国は明国の一観という人物がもたらしたと言われています。一観は織田信長の命により、初めて天守閣を持った平城安土城の粘土瓦を製造していますが、この時に粘土瓦を燻す製造法と、木型と粘土の間に雲母粉をふって脱型しやすくする工夫を伝えたようです。

第58回企画展「寺と城」は終了していますが、安土城の瓦は常設展示をしておりご覧になれます。
近江風土記の丘「滋賀県立安土城考古博物館」
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678TEL: 0748-46-2424


石見焼きと石州瓦

現在の石州瓦の原点いわゆる赤瓦これは釉薬瓦ですが、この赤瓦が石州に誕生し、今日の礎となるのですが、その誕生は、石見焼きという焼き物と深くかかわるものでした。


石見焼きは、瓶など大型の丸モノが特徴で、特に石見焼きの瓶は「はんど」と呼ばれ、寒さに強く、凍てに弾けない強い水瓶として、日本海沿岸を北上、江戸から明治・昭和の長きにかけて大ヒット商品になります。


凍てに強く、水を通さず、割れにくい石見焼きは、ひたすら地元に眠る良質な粘土「都野津層と呼ばれるものですが」のおかげでした。石州瓦の地元島根県西部地方は、今から200万年前に堆積してできた良質な陶土が豊富に埋蔵されていたわけです。


石見焼きのおこり

一般的に、近世日本の焼き物の源流は、豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役の後に起こったとされ、役の後、朝鮮半島から連れ帰った陶工たちが各地で窯を開き、中でも唐津、高取、萩、薩摩焼などがその代表とされています。


石見地方でも、文禄・慶長の役に従軍した斉藤市郎左衛門が、朝鮮の陶工「李朗子」を連れ帰り、現在の柿木村に唐人窯を開いたことが記録に残っています。

「正清猛虎討取図」  秀吉清正記念館蔵 元治元年(1864) 月岡芳年画 大判三枚続   秀吉の命で朝鮮に渡った清正が、野営地を襲う虎を槍で討ちとったという逸話を描く。

また、同じく「李陶仙」「金陶仁」が現在の浜田市で陶器を作ったという記述もあります。さらに寛暦13年(1765)、江津市で森田某が、周防岩国藩の入江六郎から学んだ唐津技法で、小物の作陶を始めるなど、焼き物造りが本格化していきます。おそらくこれらが、近世以降の石見焼きの源流と思われます。


そして、天明年間(1781頃)後世の石見焼きの特徴である大型の焼き物造りの技術が備前国より伝わったといわれています。


石見焼きマルモノ師が挑んだ瓦造り

大きなモノで、5斗入りの甕(かめ)も作られた大型の石見焼き。今では国の伝統的工芸品に指定されているこの作陶技術は、江戸時代の中頃に基盤が整備され、それ以降、明治、大正を経て、昭和は戦後の一時期まで(ブリキのバケツやプラスチックのポリ容器が出回るまで)、石見焼きの水甕は(はんど)という商品名で全国に出荷されました。寒さに強く、凍っても割れない水甕は当時貴重な水の保存器であり、酸やアルカリにも強い品質は、味噌造りや梅干などの保存、穀物の保存などにも適していました。


そして、それら丸物を作陶していたマルモノ師たちが、瓦造りに挑戦していきます。

瓦に釉薬を施すこと、そして大型の丸物の焼成に作られていた巨大な登り窯の活用。石州瓦という(はんど)と同じ性質の、凍てに強く、丈夫で割れない瓦の誕生です。


続く・・・


協力(順不同・敬称略)

石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605

一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950 

公益社団法人島根県観光連盟 島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内)
TEL:0852-21-3969

一般社団法人 近江八幡観光物産協会
〒523-0864 滋賀県近江八幡市為心町元9番地(白雲館内)TEL:0748-32-7003

(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしまTEL 0920-52-1566

名古屋市役所〒460-8508 愛知県名古屋市中区三の丸三丁目1番1号
電話番号:052-961-1111(代表)


メモ 世界の屋根シリーズ ―フランス・パリ ー

本号の「世界の屋根」は、パリのセーヌ川をはさみルーヴル美術館(防弾ガラスの厳重な警戒態勢のもと、”モナリザの微笑”は展示)対岸に建つオルセー美術館をご紹介します。

ガラス屋根から燦燦と陽がふりそそぐ。中央のプロムナード(彫刻のある所)が線路部分。


19世紀から20世紀にかけて"花の都パリ"と呼ばれたように、20世紀の文化・芸術はパリが世界をリードして来たのは周知の事実です。 ところが、当時その蔭では、ニューヨーク、ミラノ、東京などが台頭しつつあったことは、余り知られていなかったようです。
 

そこで21世紀もパリが世界の文化・芸術の殿堂として輝き続けるため、1981年にミッテラン大統領が9つの大規模プロジェクト「Paris Grand Projet」による都市再生計画を構想し、シラク 市長との協議の上、革命記念200年祭(革命200年記念は1989年)の国家的事業として世界に9大プロジェクトを披露することを決定したのです。そこで、加えてすべての計画における設計を国際コンペとする英断を下しました。 


ご紹介するオルセー美術館は、もともと1900年にパリで行われたパリ万国博覧会の会場に観客を誘導するための駅舎でした。その後、ホテルとして使用していましたが、この機に美術館に大転換したわけです。オルセー美術館は、ただ美術館というだけでなく大変に重要な使命を持っています。


ルーヴル美術館は、古代から中世のものを、ポンピドー美術館(設計は関西空港の設計者レンゾ・ピアノ)は、現代から未来のものを、そしてオルセー美術館はその間の時代を繋ぐ近代のもの、例えば印象派やアールヌーボー期の絵画・彫刻・家具・ガラス・工芸作品等々が多数収蔵・展示されています。
(これらはもともとルーヴル美術館にあったものをオルセー美術館に移したものです。)


インテリアデザインは、ヴェネチアの美術館やオリベッティのショールーム等をデザインしたイタリアの女流建築デザイナー「ガエ・アウレンティ」が担当し、コンセプトは、伝統と現代との融合。伝統的な素材の石を使用してデザインは現代的に、またかってその場所を訪れたことのある人たちが懐かしさを感じるように、さらには永遠にフランス国民の記憶として残すためにアーチのガラス天井(屋根)と天井から吊るしてあるランプ等、敢えて当時駅舎だった頃のものを使用しているのでした・・・ヨーロッパの終着駅に降り立ち渋いフレームのガラス天井を見上げると、昔観た映画「鉄道員」や「第三の男」、「終着駅」等々思い出させてくれます。


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。 

ZIPANG-2 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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