ZIPANG-2 TOKIO 2020  ~石州瓦物語(その4)~「石州瓦が200年に渡って守り続けている町並み石見銀山『大森町』」

このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


松江のシンボル松江城は全国で現存する12天守のうち、国宝の一つで唯一の正統天守閣ともいわれています。


国宝 松江城の歴史

歴代藩主

堀尾吉春 慶長5年(1600)~寛永10年(1633)24万石

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、遠江国浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移しました。豊臣秀吉、徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残しています。城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築きました。


京極忠孝 寛永11年(1634)~寛永15年(1637)26万4千石

堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜(福井県)から出雲に入国しました。3年余りの短い統治期間でありましたが、当時、度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修をしました。現在でも京極若狭守忠高にちなんだ「若狭土手」という名を残しています。また、幕府直轄領であった石見銀山(世界文化遺産)の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主のなかで最大の領地を治めました。徳川二代将軍・秀忠と正妻・江夫妻の四女が忠高の正妻・初であります。


松平直政 寛永15年(1638)~明治4年(1871)18まん

京極家の跡を継ぎ、信濃国松本(長野県)から出雲に入国しました。慶長19年(1614年)、14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘しました。敵将真田幸村は、その武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたという。徳川初代将軍・家康の第二子・結城秀康の第三子です。 城主 [初代 直政(なおまさ)]---[綱隆(つなたか)]---[綱近(つなちか)]---[吉透(よしとお)]---[宣維(のぶずみ)]---[宗衍(むねのぶ)]---[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]---[斉恒(なりつね)]---[斉貴(なりたけ)]---[定安(さだやす)]


廃城例。地元の有志により買い戻す。

明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。 天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。 ※当時米一俵が3円弱といわれた。



日本の城は、幕末で338城、明治6年の太政官布達によって58城が存続されることになり他は廃城となりました。しかし残った58城も太平洋戦争で焼失したものが多く、現在古い天守閣をそのまま残す城は12しか残っていません。 松江城は残った12城の一つ。築城時期は江戸時代だが、その様式は桃山時代のものと伝えられます。天守閣の屋根はいわゆるいぶし瓦。鬼は角が未発達で、鯱鉾木骨青銅張り、平部は本葺き。城も城下町も、いまだ戦乱癒えぬ時代からか実戦に備えた堅固な工夫が随所になされています。
  

櫓3棟復元
かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓があった。このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13年に約125年ぶり(明治8年取壊し)に復元した。


松江城と城下町

松江の家並みはいぶし瓦の景観でいわゆる城下町の風情そのものといわれています。 この地の瓦は石州瓦ではなく、地元で焼かれたもの。
現在瓦窯元は存在せず、新築などはもっぱら石州の釉薬瓦が使われているがやはり銀黒系が多いようです。

 松江城下町

城の南東にあたる大手門の前の殿町や母衣町には、禄高1000石以上の重臣の屋敷を含んで、500石以上の上級家臣の屋敷が並んでいます。


外堀の北、東、南でコの字形を囲むように町屋が並び、北堀には重臣の下屋敷、100~300石の中級武士の屋敷が、西堀の外側には150石以下クラスの武家屋敷が建てられていたようです。今日、武家屋敷通りとして多くの観光客を集めるのは北掘の武家屋敷群。北堀の武家屋敷のさらに北側にある町並みは町屋通りで、武家の暮らしを支えるための商人や職人が住んでいたものと思われます。


城の南、京橋川を隔て宍道湖に面する町末次は商工業の居住地で、末次町、芋町、片原町、紙屋町、鍛冶町、材木町、本町、魚町、茶町などがあります。


『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。


石州瓦の施工事例

「石州瓦」本葺き瓦来待 (株)丸惣 施工例

「石州瓦」TSルーフ 古代赤混ぜ葺き(特)施工例

「石州瓦」TSルーフ イラボ色(特)施工例

「石州瓦」備前色混ぜ葺き 施工例


銀の島「日本」

時は16世紀、日本は戦国乱世、世界はいよいよ大航海時代へ突入する大きな過渡期。日本は「プラタレアス=銀の島」という名前で知られていました。


当時日本で産出される銀の量は、世界の銀流通量の1/3を占めるほどでした。


そしてその大半は石見銀山で採掘される銀だったのです。


江戸時代の初め、人口20万人を集め、世界最大の産出量を誇った幕府天領地石見銀山大森の町。当時天才と呼称され徳川家康からも賞賛された稀代の山師安原伝兵衛は『お山の繁盛おびただしく、私が召し使う者1000人余。全国から集まりたる者共20万人。谷には銀鉱脈が充満し、昼夜を問わずにぎやかなる様は京や堺と異なることなし』と書き記しています。


石見銀山大森の町は、銀山開発の前線基地。当時の戸数は2万6千余り、寺院100ヶ寺、家は家の上に重なり、軒は軒の下に連なり、大森の町は端から山の上まで軒下づたいに歩けたといわれます。


現在の大森町の町並みは、西暦1800年の大火の後、建替えられたもので建築後200年を経過していますが、当時の面影を余すところなく伝える町並みとなっています。西暦1800年といえば、石州瓦はすでに来待釉薬を使った赤瓦として産地形成が確立していました。


石見銀山大森の町並みは、典型的な赤瓦の景観。山陰の狭い谷あいに、長さ1kmに渡って、古い木造の民家が朽ちることなく、今でも暮らしと生産の空間としてしっかりと町の機能を果たしています。


石見銀山大森の町は、石州瓦が200年に渡って守り続けている町並みです。


昭和62年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された大森の町は、2007年6月28日世界遺産に登録されました。


信長の安土城から20数年後、日本は近世江戸時代を迎えます。このとき日本全国ほぼ一斉に始まったのが300諸侯を数える城下町の建設。天守閣を持った城を中心に上級の武家屋敷、下級武士の長屋群、工商の町屋群、寺町などを有機的に配置、水路と道路をたくみに配した城下町の建設は、まさに近世日本300年の体系をスタートさせる、画期的な都市開発だったわけです。


この町造りに、瓦は大きな役割を果たしていきます。まずは天守閣を飾る屋根瓦は権威の象徴、武家屋敷群や町家群の瓦屋根は、火災から町を守る防火の役割を、寺町に集中する寺院建築群は、いざという時の出城機能と記録の焼失を防ぐ役割を持っていたわけですが、瓦は武家の権威と城下町の防災機能を高める

という大きな役割を担っていたのです。


続く・・・


補足

本号の「世界の屋根」は、スペインのアンダルシア地方「アルハンブラ宮殿」です。

スペインの歴史は複数民族の興亡に始まり、多種多様の宗教と文化がもたらされた。
スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に建つアルハンブラ宮殿は中世の城塞・宮殿です。城の周りは30以上の塔によって囲まれています。
広大な宮殿には、キリスト教とイスラム教建築の融合した空間が広がっています。また、あちらこちらに伊賀・甲賀の忍者屋敷のような仕掛けが作られていますのでお見逃しなく…いや、ご注意を!
アラビア語で赤い城の異名を持つアルハンブラ、名前の由来は多量の赤鉄を含む赤壁が城郭に使用されているからです。


鎹八咫烏記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605

松江城(松江城山管理事務所) 〒690-0887 島根県松江市殿町1-5 TEL.0852-21-4030

一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。





ZIPANG-2 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

0コメント

  • 1000 / 1000