先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
島根県とは・・・
“島根”は、「古代」「中世」「近世」の日本の歴史がすべて入った“歴史の缶詰”とも言える全国でも特異な地域です。
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から
紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
季節になるとヒトツバタゴが咲き乱れる対馬の「韓国展望台」から韓国・釜山は目の前です。
夜になると釜山港のネオンサインや通りを走る車のヘッドライトが揺れる国境の街…
今もイカ釣り船の漁火を見ることができるのだろうか?
出雲市「弥生の森博物館」 西谷2号墓(西谷墳墓郡)
“島根”では、そのことを物語るたくさんの証拠が出土しています。 出雲市の「西谷墳丘墓」の葬祭の遺跡からは、「北陸系」や「吉備」の土器が出土し、棺の下に敷き詰められた「水銀朱」 は朝鮮半島を経由した中国産であることも解っています。
また「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」から出土した大量の青銅器(銅剣、銅鐸、銅矛)や、出雲大社近くの遺跡から出土した銅戈や翡翠の勾玉などは、日本海を通じて「北九州」や「北陸(越)」との交流があったことを 示唆しています。
正しく『古代出雲』は、日本海交流の中核的な存在だったと想像できます。
中世(戦国時代)の“島根”は、日本のみならず世界の歴史に大きな影響を与える存在でした。
石見銀山には「龍源寺間歩」はじめ、大久保間歩、釜屋間歩などがの間歩が存在します。
石州瓦の建物が連なる石見銀山大森町の町並み。自動販売機のカバーまで古材で統一。先駆的な町並み保存。住民と関係者の意識の高さが感じられます…(群言堂 石見銀山本店近くにて)
15世紀末からの大航海時代に東南アジアへ進出を始めたポルトガル人は、「石見銀」を始めとする「日本銀」 を獲得することを目的として日本近海に来航し、種子島にたどり着きました。 そして、鉄砲を始めとした西洋文明が日本に伝わり、その後の日本史に大きな影響を与えることになりました。 「石見銀山」の支配権を求めては、大内氏、尼子氏、毛利氏などの戦国大名が激しい争奪戦を行い、関ヶ原の戦いの直後には徳川氏の直轄地となりました。
毎年、岐阜県関ケ原市では関ケ原合戦の様子を再現して、関ケ原の古戦場にて東軍・西軍の戦が行われています。
16世紀から17世紀にかけて世界の銀産出量のかなりを占めたと言われ、歴史上大きな影響力をはなった 「石見銀山」は、2007年に『世界遺産』に登録されました。
近世(江戸時代)の“島根”は、『茶の湯文化』が花開きます。 松江松平藩七代藩主・松平治郷(号:不昧)は茶人として知られ、自ら不昧(ふまい)流を興し、民衆でもできる「茶の湯」を広めます。また、「不昧公好み」と言われる和菓子も奨励し、現在に引き継がれています。
「明々庵」
明々庵は茶人として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤(ありさわ)家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席です。
一時は東京の松平伯邸に移されていましたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、昭和3年菅田庵(かんでんあん)のある有澤山荘の向月亭(こうげつてい)に隣接した萩の台に建てられていました。大戦後、管理が行き届かず、荒廃していたのを、昭和41年、不昧公150年祭を機に現在の赤山の大地に移されました。
茅葺の厚い入母屋に不昧公筆の「明々庵」の額を掲げ、茶室の床の間は、五枚半の杉柾の小巾板をそぎ合わせた奥行きの浅い床で、また二畳台目の席は中柱もなく炉も向切りといった軽快なものとなっており、定石に頓着しない不昧公の好みの一端を伺うことができます。
「尾道自動車道」と「松江自動車道」が全線開通し、山陰・山陽が約2時間30分で結ばれ、一層アクセ
スも便利になりました。
日本庭園「由志園」
「人の心となり相手を思いやること」創業者の教えを守る。日本庭園 由志園。
石橋と池泉中央に石燈籠を…。
「雌滝から池泉への流れに架かる石橋。家族への感謝の気持ちを込めて、初代園主・門脇栄が造りました。愛する妻と娘の名前を一文字づつとって、梅恵橋と命名。」
来待釉薬という不思議
石州瓦の誕生。それは良質な陶土のほかにもう一つ、来待(きまち)という名の釉薬の存在が不可欠でした。来待釉薬は、おなじく島根県の東部出雲地方で採掘される来待石からとれるもので、耐火度が極めて高く、おなじく耐火度の高い都野津陶土とマッチすることで、高品質な石州瓦が生まれることになりました。
来待石の石切り場。青みがかった石であるが、空気に触れ次第に茶色に変化します。
来待石は、約1400万年前に形成された凝灰質砂岩で、来待町の埋蔵量は世界有数のもの、江戸時代から出雲石灯篭(国指定の伝統的工芸品)として全国に知られていました。
日本庭園「由志園」
石灯籠 手前は石橋「梅恵橋」春には色とりどりの石楠花(シャクナゲ)が咲き揃います。
写真は石州瓦の赤色を思わせる石楠花【開花時期】4月上旬~6月中旬
来待石は、古墳時代の石棺、中世以降は石塔、石仏、棟石、墓石、石臼、建材などに使われ、近世中頃からは釉薬の原料となり、石見焼きや石州瓦を生み出していったのです。
採掘したばかりの貴重な来待石の原石。確かに土江明夫石材の親父さんが言うように青っぽい!後ろに見える石灯籠のように時がたつと庭に馴染んで茶色に変化するんですね~
そう言えば、岐阜県恵那の錆び石は白の斑が茶色に変化します。有馬温泉の金の湯も源泉は透明だが、空気に触れ吐水口から流れ落ちるときには茶色に変化します。不思議ですね~
来待石はやわらかく加工しやすい材料で大変貴重な物産。江戸時代松江藩は藩外持ち出しを禁じたほどでした。
現在、来待石の原産地である島根県松江市宍道町の採掘跡地に「モニュメントミュージアム 来待ストーン」が整備され、来待石の歴史文化を紹介する博物館や体験工房、陶芸が体験できる夢工房が建ち並んでいます。
来待ストーンミュージアム
「来待石(きまちいし)」は、ここ宍道町来待地区周辺でしか産出されない貴重な凝灰質砂岩です。また、古くから日本人の暮らしの中に深く関わってきました。家の柱の土台、階段、飛び石、灯ろうなどの住宅建材から、手水鉢、石臼と、生活に密着した良質の石材として利用されてきました。
その歴史・文化を紹介しているのが、「ミュージアム」です。
ミュージアムでは、灯ろう作りの流れを石の匠たちのオブジェや再現映像で紹介する他、随時特別企画展を開催しております。
焼成温度 1300度という奇跡
一般的に、セラミック製品の焼成温度は、例えばレンガで800~900度、素焼き・楽焼きで800~1100度といわれます。しかしながら同じ焼き物でも石見焼きは、1300度の高温で焼かれていました。瓦でも例えばだるま窯などで焼くいぶし瓦などは900~1100度ですが、石州瓦は石見焼きと同じく1300度で焼かれていました。
耐火度の高い粘土と釉薬を原料とする石州瓦は、1300度の高温焼成が求められたのです。
石州タイル 【300角】薪ストーブの炉台 【棒】薪ストーブの炉壁 亀谷窯業施工例
石見焼きの職人たちは、1300度の高温焼成を可能にするシステム「巨大な登り窯」を築きます。現在も石見地方で多く見られる登り窯跡は、房が10~18段もある巨大なもので、1500度以上の高温を可能にするものでした。
大型の石見焼きや瓦は、この登り窯で、1300度前後の高温で焼かれていました。
現在石州瓦は、近代的な焼成システムジェットキルン(トンネル窯)で1200度以上の温度で焼成されていますが、この温度は日本各地の瓦の中では最も高い焼き温度。この温度差が石州の品質の優位性をゆるぎないものにしています。
また歩留まりや品質の均一化など、そのクオリテイは格段に進歩しています。
石州瓦古民家再生
石州瓦 木村窯業所施工例
続く・・・
協力(順不同・敬称略)
石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605
一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950
公益社団法人島根県観光連盟
島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内)TEL:0852-21-3969
(有)日本庭園 由志園 〒690-1492 島根県松江市八束町波入1260-2
TEL :0852-76-2255
明 々 庵 〒690-0888 松江市北堀町278電話:0852-21-9863
土江明夫石材 〒699-0404 島根県松江市宍道町東来待1735 電話:0852-66-2867
来待ストーンミュージアム
〒699-0404島根県松江市宍道町東来待1574-1TEL:0852-66-9050
(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま TEL 0920-52-1566
関ケ原観光協会 〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1167−1
電話: 0584-43-1600
一般社団法人 岐阜県観光連盟 〒500-8384岐阜県岐阜市薮田南五丁目14番12号
岐阜県シンクタンク庁舎内 電話: 058-275-1480
《メモ》 世界の屋根シリーズ "バルセロナ"
本号の「世界の屋根」は、スペイン・バルセロナをご紹介します。
波打ったベランダの手すりは鉄を柔らかく見せ、地中海の波間に漂う海藻を表現しています。
写真はサグラダ・ファミリア大聖堂の建築設計で有名なバルセロナの鬼才と呼ばれる建築家アントニオ・ガウディ設計による傑作のひとつ「カサ・ミラ(1905年~1910年)」通称ラ・ぺドレラ(石切り場)とよばれています。外観のウェーブは地中海の波を表現しています。そのためにガウディは、未加工の原石を積み上げまるで彫刻でもするかのように現場で彫ったものです。
実はカサ・ミラは集合住宅です。中庭形式で涼しく、住宅、オフィス、学校等として、今も使用されています。
恐竜の背中にも見えるカサ・ミラ(通称ラ・ぺドレラ『石切り場』)の屋上。
この建築の見どころは、屋上にもあります。屋上の屋根部分は1900年にグエル公園の建築で考案した破砕タイルの手法を活かし屋根部分を覆っています。またイスラムの服装や、日本の忍者を連想させる煙突が所狭しと立っています。敬虔なキリスト教徒であったガウディの遊び心を垣間見たような気がします。
ガウディは最後の仕上げを有能な二人の弟子のひとり色彩の魔術師「ジュジョール」に任せっきり、本人はサグラダファミリア教会の建築に没頭していたのです。
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