先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
大国主大神様といなばのしろうさぎ
八百萬の神々と共に ~ 神 在 祭 ~
出雲大社
「平成の大遷宮」とは
皆様方の御心添え、御力添えを戴き「出雲大社平成の大遷宮」の事業は順調に進み、平成25年5月10日には「本殿遷座祭」を斎行致し、大国主大神様には麗しく蘇った御本殿にお還りになりました。その後も大神様と由縁ある神々がお鎮まりになる御社殿の御修造遷宮等事業は続き、平成28年3月をもって、全ての御社殿の御遷宮御修造はじめ当初予定の事業はほぼ完了しました。
平成28年4月以降は第2期事業として、予てより進められております会所修造の継続をはじめ、出雲大社と密接な関係を持つ鎮守社8社他の御修造、平成12年に顕現しました古代御本殿心御柱展示のための宝物殿の改修、また昭和38年の竣功以来50年以上を経て、著しい亀裂や雨漏りによりご参拝の皆様方にご不便をおかけするようになりました現庁舎の建て替え等、平成31年3月まで平成の大遷宮の事業を継続して参ります。
この庁舎建て替えは、嘗ては以前の庁舎(昭和28年焼失)「榊の間」において奉仕され、今は他所で執り行われている祭事を古来の姿に蘇らせ、後世に伝えることにも結ばれる事業です。
予てより「平成の大遷宮」を広く全国の皆々様のご崇敬の深き御心を結びお仕えさせていただくために「出雲大社御遷宮奉賛会」を設立し、御遷宮ご奉賛をうけたまわってまいりましたが、どうか引き続き、皆様方のご支援を賜わりますよう宜しくお願い申し上げます。
お問い合わせ
出雲大社社務所 〒699-0701島根県出雲市大社町杵築東195
TEL.0853-53-3100 FAX.0853-53-2515 (午前8時30分~午後5時 )
明治の御遷宮
出雲大社の創建
出雲大社の御祭神の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)様は、神代の昔、人々のために国づくりに汗を流され、国土を開拓されて、農耕・漁撈など山野河海の生業、医薬禁厭の法などをお授けになられ、人々の日々の暮らしのすみずみに至るまでシアワセの種蒔きをなされ、いしずえを成しととのえ結ばれました。そして、国づくりなされた国土を御皇室の御祖先の天照大御神様に〝国譲り(国土奉還)〟なされ、神事(かみごと)の世界、幽世(かくりよ)という目に見えない世界、神々の世界、タマシイの世界をお治めになられる大神として、壮大な御神殿にお鎮まりになりました。
その御神殿は、広く厚い板を用いて御造営なされ、太く長い御柱は地下の岩盤に届くほどに地中深く突き固められ、御屋根に掲げられる千木(ちぎ)はたなびく雲を貫くほどと、その壮大な様が『古事記』(712)・『日本書紀』(720)に言い継ぎ語り継がれています。
また、『出雲国風土記』(733)には、祖神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が〝国引き〟をなさって国形を造られた後、国づくりをなされた大国主大神様を「天の下造らしし大神」と称えて大神様のお住まいを多くの神々集われて築かれた。それゆえに、この地域をキヅキと言うと、地名起源に御神殿の御造営を語っています。また別に壮大な御神殿ゆえに、長い長い測りをもって御造営されたことなどが記されています。
「天の下造らしし大神」と称えられました大国主大神様の御神績とお住まいの御造営につきまして、我が国の古典中の古典にその様子がこれほどまでに記されているのは出雲大社に限られたことで、極めて特殊な事柄として語り継がれています。それはすなわち、いかに数限りない人が大国主大神様をお慕いしお祈りを結び、そしてその期待にお応えになられたかという広大無辺なる御神徳を称えた証であり、その祈りは親から子へ、子から孫へと代々に祈り継がれ、後世の御遷宮御造営にも伝え継ぎ具現されてきたのです。それゆえにも、御造営に関わります古代の古文書記録には、「国中第一の霊神」とも称えられています。
金輪の御造営
その昔、子供の教科書であった『口遊』(くちづさみ。970)には、建物のおおきさのベスト3を掲げ「雲太・和二・京三」と記し、「雲太」とは〝出雲太郎〟の略で、出雲大社の神殿のことと言い、〝大和二郎〟の彼の東大寺大仏殿より大きかったと明記しています。このように、古代出雲大社の御本殿は高さ16丈(約48メートル)を誇る高大なものでした。そのため、古代の文献記録にはしばしば「社殿顛倒」のことが記されています。その高大な御神殿の平面図の「金輪御造営差図」が宮司家の千家家に伝蔵され、この時代の御造営を「金輪の御造営」と言い伝えていますが、他方、こうした御造営に関わります古文書記録には、出雲大社の御本殿をして「天下無双の大廈(たいか)」と称えています。
建久元年(1190)頃、参詣した寂蓮法師(藤原定長)は、〝雲太〟の御神殿を仰いで、「出雲大社に詣でて見侍りければ、天雲たな引く山のなかばまで、片そぎのみえけるなむ、此の世の事とも覚えざりける。やはらぐる 光や空にみちぬらむ 雲にわけ入る ちぎのかたそぎ」とその壮大な様に感歎して詠じました。 平成12年の春、境内の八足門(やつあしもん)前より松の参道に絶え間のない行列が続きました。「金輪御造営差図」に伝えられます高さ16丈(約48メートル)時代の御神殿の御柱が顕現し、その御柱は祖先の伝えの通りの巨木3本を束ねて一本の御柱(約3メートル)としたものでした。この御柱をひと目拝もうとするおびただしい人々の列で、恰も〝蟻の熊野詣で〟を髣髴させるものでした。
こうして、言い継ぎ語り継がれた〝3本束ね柱〟の御柱9本をもって御造営された「金輪御造営差図」御神殿実在を、天下に白日の下に明らかにしました。高大ゆえに、この御柱の根元はおびただしい量の礫によって突き固められ、長さ1町(約109メートル)にも及ぶ階段が附設されていました。高大な御神殿は、それゆえに幾度となく「顛倒」しました。しかし、〝おかげ〟に結ばれる人々は、倒れても倒れてもなお大国主大神様のお住まいをと御造営を継ぎ伝えました。
寄木(よりき)の御造営(1115年)
天仁3年(1110)7月4日のこと、出雲大社の近くの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)の巨大な大木約100本が漂着しました。この事情は次のようでした。同じ頃、因幡の国(鳥取県東部)の上宮近くの海岸にも、長さ15丈(約45メートル)、太さ1丈5尺(約4.5メートル)の巨木1本が漂着しました。地元民がこの巨木を切ろうとしますと大蛇が巻きついており、驚き逃げ帰りましたが、病にかかりました。そこで、いろいろ祈祷を行ったところ、上宮の神様の託宣が現れました。「出雲大社の御造営は、諸国の神様が受け持たれて行われる。今度は自分の番であり、すでに御用材は納めた(つまり、これが稲佐の浜辺の〝寄木〟です)。そして、この巨木1本は自分の得分で、これをもって自分が鎮まる上宮の御造営をなすべき」、というものでした。
この伝承は、「国日記云」として古代の文献に載録されているものです。諸国のそれぞれの産土の氏神をおまつりする人々が、それぞれ受け持って御造営に祈りを結ばれ、御造営の御用材などを納められていたことを反映していますが、ともかくこれによって、永久3年(1115)の〝雲太〟の御遷宮御造営がおこなわれました。これより以前、治暦3年(1067)に御遷宮御造営された〝雲太〟の御本殿が天仁元年(1108)に転倒して以来、御仮殿にお住まいでした大国主大神様も伝統の〝雲太〟の御本殿にお遷りなさいました。そこで、この御造営を「寄木の御造営」と特に伝え来ています。
仮殿式造営遷宮の時代
やがて時代は武家の支配する世となりました。しかし、鎌倉幕府の法律書の『貞永式目』にはその第一条に「神社を修理して御祭りを大切にすること」と規定され、この最初の武家法の趣意は以後の室町幕府法、戦国大名分国法、江戸幕府法に至るまで踏襲されました。ただ、中世期にあっては御本殿の規模が縮小されての御遷宮御造営となり、これを「仮殿式」と称しました。しかし、それでも一般の諸社と比べますと大きく、また鎌倉時代末期の正中2年(1325)でも「社檀を高く広くして神躰を奉安いたし置きまつる故、或は大社と号し、矢倉宮と称す」と言われました。つまり、その形容から御本殿が「櫓」と形容されるように依然として高大性を顕わしていました。こうした時代の最後の御遷宮御造営は慶長14年(1609)のことですが、この時の御造営の御本殿は棟までの高さが5丈7尺4寸(約17.5メートル)でした。なお、この時の御造営では、これまでの掘立柱建物であった様式から、礎石建物の様式に変更され、以後、この様式が踏襲されることになります。
他方、戦国時代末期の境内には、大日堂、三重塔、鐘楼なども建立されていました。中世期は神仏習合の最も盛んな時代でしたが、当時、その本拠を出雲におきつつ現在の山口県から兵庫県に至る領域を支配した尼子経久は、戦国の厳しき世の有り様にあって神仏を篤く信仰し、出雲大社の御造営に心を結びつつ仏的寄進をも行いました。現在、三重塔は国重要文化財として兵庫県の名草神社に、鐘楼の鐘は国宝として福岡県の西光寺に現存します。
寛文の御造営(1667年)
浜松城城主であった徳川家康公が我が身の戒めとして武田軍に敗れた時の情けない姿を描かせたものといわれています。(徳川美術館 蔵)
戦国の世も徳川幕府の支配する世となり終息しました。大きな社寺の御造営普請には幕府の許可が必要でした。そこでお仕えする当時の社家の人々は出雲大社の伝統、神学、教学を積極的に幕府や藩に説き続け、さらにそれまで続いた「仮殿式」の御造営から本来の姿にと交渉を重ねました。その結果、幕府は2千貫を御造営費として寄進し、高さはかつての16丈(48メートル)の半分ではありますが、8丈(24メートル)、また平面規模はほぼ往時に匹敵する御本殿を「正殿式」として〝復活〟させ御造いたしました(つまり、往時の〝雲太〟の御本殿に比すれば、床下の柱部分が短くなった形となります)。こうして寛文7年(1667)3月晦日(29日)、御遷宮がお仕えされました。
また、この御造営にあたっては、戦国時代末期の尼子氏寄進により境内にあった仏的施設を近隣の寺院に下げ渡して、全国で最も早く「神仏分離」を実現するなど、この御遷宮御造営は出雲大社史上に画期をなすものとなりました。
この御造営には逸話があります。幕府政権の確立は3代将軍徳川家光にあたりますが、彼にはなかなか世継ぎの誕生がありませんでした。そこで有名な春日局は松江藩に代参を命じ世継誕生を大国主大神様に祈願しました。すると翌年、後に4代将軍となる家綱が誕生し、家綱は大国主大神様の〝申し子〟と言われました。こうして寛文御遷宮は、家綱の治世下にお仕えされました。
延享の御造営(1744年)
現在の御本殿がこの時の御遷宮御造営です。前回の寛文御造営と同様に幕府に御造営許可を求めました。ところが、幕府は御造営の許可はしましたが、慢性的財政難に陥った幕府からの財政的援助はなかなか良い返事がありませんでした。そこで、出雲大社は社人による全国への御造営御浄財の募材活動(当時、これを日本勧化ーにほんかんげーと言いました)をすることの許可を幕府に求めました。厳しい人の動きの国内統制のしかれた時代でしたが、幕府は特にこれを許可しました。
社家の人々は全国各地の大名・藩主の入国許可を得ながら、都市や農村などを巡り御神徳を説き、御祈祷を奉仕し御神札を授与しつつ、御造営御浄財の募財をお仕えしました。やがて幕府も寛文の時には及びませんが出雲大社の大事ゆえにと御浄財を寄進し、全国の皆々様の篤く尊い祈りの結びとともにして、延享元年(1744)10月7日に寛文御造営を踏襲する「正殿式」の御遷宮御造営がお仕えされました。
以来、文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)と3度の御遷宮御造営(屋根の葺き替えなどを主とする御修理)をお仕えして現在に至っています。
昭和御遷宮
境内全域図
境内のご案内
御本殿
「天下無双の大廈(二つと同じものが無い壮大な神殿)」と称えられる御本殿は、悠久の歴史の中でその度々の御造営遷宮と御修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いできました。
現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。
御本殿の高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を 今に伝えています。その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、その正面向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)があります。
従って、御神座は御本殿と同じ南向きではなく、西向きになります。
御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています。
古代には3本の大木を鉄輪で束ねて1本の柱とし、高さ16丈(48メートル)の御本殿でありました。 千家國造家(出雲大社の宮司家)に伝わる古代御本殿の平面図「金輪御造営差図」が、 その壮大な御本殿の容姿を今に伝えています。 平成12年には境内より、古代御本殿の御柱が「金輪御造営差図」そのままに3本束ねの姿で発掘され、 今の世に顕現しました。
拝殿
現在の拝殿(はいでん)は、昭和34年5月に竣功しました。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。
名工の粋が集められ竣功
昭和28年5月に、荒垣(あらがき)内にあった古い拝殿・鑽火殿(さんかでん)・庁舎(ちょうのや)が不慮の火のために焼亡してしまいました。当社では、再興の事業に着手し、ただちに高松宮宣仁親王を総裁にいただき、全国の崇敬者の方々の浄財によって、6年後の昭和34年に総工費1億1千万円をかけ、戦後の本格的な木造建築として屈指の規模を誇る新拝殿が竣功しました。
設計は、神社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となっています。屋根は銅版ですが、木曾檜材の木造建築で、建坪485.10平方メ-トル(約147坪)、高さ12.9メ-トルです。
拝殿宇豆柱の礎石は、愛知県の岡崎石(重量13トン)が運ばれ、工事請負は、桃山時代から長く棟梁の家として続いた伊藤平左衛門氏があたられ、拝殿の錺金具も美術的にも価値あるものをとの考えから、東京芸術大学の山脇洋三・若林作司両教授が設計されました。
神祜殿
神祜殿は昭和56年(1981)、建築家菊竹清訓氏の設計により竣功、宝物殿として出雲大社に伝わる貴重な宝物の数々を展示・公開してまいりました。
「神祜」とは「神の助け」、「神から幸を授かる」という意味があります。
「平成の大遷宮」を記念した改修工事により、展示施設を刷新、平成12年(2000)に境内より出土した古代本殿の心御柱など、出雲大社の歴史と信仰を感じて戴ける展示内容となっております。
「天下無双の大厦、国中第一の霊神」と称えられる出雲大社。御祭神大国主大神は「所造天下大神」と称えられる一方、縁結びの神、福の神たる「だいこくさま」としても広く世人に親しまれています。
その歴史・伝統の不易なるは、御本殿の高大性が今も神話以来の伝統そのままにあることが物語っています。それは歴世に継承されてきた人々の祈りであり、現在当社に伝えられる宝物の1つ1つはその祈りの証でもあります。国宝「秋野鹿蒔絵手箱」をはじめとする伝世品の数々は、美術工芸品や考古遺物といった枠を超えて、私たちに何かを語りかけてきます。
この展示を通じて、歴世の人々の祈りとその歴史の一端を感じていただけるものと思います。
神楽殿
神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。
昭和56年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。その大広間は270畳の広さを誇り、神社建築にはめずらしく正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。
正面の大注連縄は長さ約13メートル、重さ約4.5トンに及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。そして、神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳(タテ8.7メートル・ヨコ13.6メートル)の大きさです。
また、神楽殿後方には出雲大社宮司家の祖先神や天満宮などをお祀りした鎮守社が並び、国旗掲揚塔の南には祓社、金刀比羅宮が並んでお鎮まりです。
千家國造館
天穂日命以来代々出雲大社に奉仕される出雲國造がお住まいになるのが國造館です。同館のなかの書院は明治45年に大正天皇が出雲大社御参拝の折り、行幸を仰いだお部屋で、その後も各宮殿下がしばしば成らせられました。また國造館を語るうえで忘れてはならないのが斎火殿(さいかでん/別に御火所・おひどころ)です。
斎火殿は國造家の潔斎所(けっさいしょ-おまつりを奉仕するにあたって身を清めるところ)です。國造代替り毎に火きり臼、火きり杵によって神火がおこされ、ひとたび鑽りだしたその火は斎火殿の中にあって、その國造在世中は絶やしてはならないとされています。國造は終生祭事ある毎にここに入って潔斎し、この火で調理したものを飲食します。ですから國造館は単に國造家の住まいであるばかりでなく、同時に厳重な潔斎場という性格を合わせ持っています。
結婚式場
神楽殿
大国主大神様は后神である須勢理比売命(すせりひめのみこと)と永遠の契りを交わされ、今にいたるまで仲睦まじくお鎮まりになっていらっしゃいます。この円満なる二神の御神徳を仰ぎ、新しい人生の門出を迎えられる皆様の神前結婚式をご奉仕しております。
結婚式は平素御祈祷などをご奉仕する神楽殿、またはおくにがえり会館2階の結婚式専用の神殿にて執り行います。
お申し込みに際しては、はじめにお電話で仮予約をして、結婚式の1ヵ月前までにお申込書と結婚式初穂料を納めて正式なお申し込みとなります。
結婚式に関するパンフレットもご用意してあり、先ずはお電話にてお問い合わせ下さい。
出雲大社神前結婚式の特徴
神代の初め、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)はお互いに「天之御柱(あめのみはしら)」を巡って夫婦の契りを交わされ、日本の国土と多くの神々をお生みになられました。そして、大国主大神様は須勢理比売命と夫婦となられ、御力をあわせて国づくりに尽くされました。
このように、夫婦の道をお示しになられた神々の御神徳を仰ぎ、出雲大社の神前結婚式では神殿に設けられた天之御柱を夫婦が巡り、御神前にて誓詞(ちかいのことば)を述べて永遠の契りを交わします。
おくにがえり会館
神楽殿向かって左手に建つのがおくにがえり会館です。出雲大社の信仰を広める布教機関として組織された出雲大社教を総括する出雲大社教教務本庁がある他、二階には結婚式場が設けられています。 出雲大社教教務本庁は、出雲大社教の傘下で全国各地に組織された分祠・大教会(分院)・教会・講社を統括する出雲大社教の事務所です。
結婚式に関するお問い合わせ
出雲大社結婚式場(出雲大社教教務本庁内)TEL:0853-53-2063 FAX:0853-53-0092
祖霊社
神楽殿よりさらに西方に位置する、大きな瓦屋根の建物が祖霊社(正式には出雲大社教祖霊社)です。その歴史は明治8年にはじまります。出雲大社教初代管長千家尊福公(当時は出雲大社大宮司)が、大国主大神さまが「幽(かく)れたる神事」をお治めになる御神徳を現されることから、今現世に生かされている人々が亡くなって後も、その御霊(みたま)が安らかに家の守護神(まもりがみ)として鎮まって戴けるよう大神さまに安寧をお願いしお守り戴くための葬祭(葬式)を行い、御霊さまに永久に安らかにお鎮まり戴く時々の追遠のお祭り(仏教での法事)を行う処としてお建てになりました。
斎家(檀家)は大社町内外に2000戸以上になります。祖霊社も他のお社のように自由に参拝できます。また、より親しみやすく参拝していただくために、この拝殿は平成9年から椅子席になりました。
銅鳥居
出雲大社の神域の荒垣正門にたちます。この碧銅の鳥居は、寛文六(1666)年六月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものです。
摂末社
境内・境外に建てられている摂末社。 出雲大社の祭神である大国主大神の后神・御子神など特に関係の深い神々を祀る摂社と、それに次ぐ末社をご案内しましょう。
境内の摂末社
1. 大神大后神社(御向社) おおかみおおきさきのかみのやしろ(みむかいのやしろ)
2. 神魂伊能知比売神社(天前社) かみむすびいのちひめのかみのやしろ(あまさきのやしろ)
3. 神魂御子神社(筑紫社) かみむすびみこのかみのやしろ(つくしのやしろ)
4. 素鵞社 そがのやしろ
5. 氏社(北) うじのやしろ
6. 氏社(南) うじのやしろ
7. 門神社(東・西) みかどのかみのやしろ
8. 釜社 かまのやしろ
9. 十九社(東・西) じゅうくしゃ
10. 祓社 はらえのやしろ
11.野見宿禰神社 のみのすくねじんじゃ
境外の摂末社
1.神魂伊能知奴志神社(命主社) かみむすびいのちぬしのかみのやしろ(いのちぬしのやしろ)
2. 大穴持御子玉江神社(乙見社) おおなもちみこのたまえのかみのやしろ(おとみのやしろ)
3. 大穴持御子神社(三歳社) おおなもちみこのかみのやしろ(みとせのやしろ)
4. 上宮(仮宮) かみのみや(かりのみや)
5. 出雲井社(出雲路社) いづもいのかみのやしろ(いづもじのやしろ)
6. 因佐神社(速玉社) いなさのかみのやしろ(はやたまのやしろ)
7. 湊社 みなとのやしろ
8. 下宮 しものみや
9. 大歳社 おおとしのやしろ
10.阿須伎神社(阿式社) あずきのかみのやしろ(あじきのやしろ)
11. 大穴持伊那西波岐神社 おおなもちいなせはぎのかみのやしろ
出雲大社境外図
協力(順不同・敬称略)
出雲大社〒699-0701島根県出雲市大社町杵築東195 TEL.0853-53-3100
公益社団法人島根県観光連盟
〒690-8501島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内)TEL:0852-21-3969
徳川美術館 〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017電話: 052-935-6262
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
今年は、大変にお世話になりありがとうございました。皆様、良いお年をお迎えください。
正月三が日には是非初詣にお出かけください。お待ちいたしております。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
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