このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
江戸時代から明治中期まで、天竜川を下った天竜材の多くは掛塚港から海上輸送によって主に江戸、東京方面へ運ばれました。近代化以前、筏流しの木材も掛塚で木挽き(製材)されています。
明治四年(1871)、横山村の板屋は東京に支店を置き、船舶を建造して自家輸送を行なっています。山竹、松野平九郎らも自家輸送に乗り出しました。この頃、東京市場で天竜材は紀州材に次ぐシェアを獲得しています。
明治九年(1876)掛塚に火力による製材工場が操業すると、翌年、横山村に水力製材工場、十七年には二俣村に蒸気機関を応用した製材工場が創業。明治中期までは原木の入手が容易で水力が利用出来る山間部で急速に近代化が進んでいます。二俣には全国十基紡の一つ遠州二俣紡績や第百三十八国立銀行が創立し、天竜川水運を利用した物流の主導権は掛塚から二俣へと次第に移行していきました。
明治二十二年に東海道本線が開通すると、明治後期には池田村や対岸の中ノ町村に大規模製材工場が作られ、中泉駅、天竜川駅から鉄道による木材輸送が本格化、明治末期には掛塚まで下る筏は大きく減少し、中野町が木材市場の主要な拠点となりました。
明治二十二年、王子製紙気田工場で日本最初の木材亜硫酸パルプ製造を開始、三十二年に王子製紙佐久間工場操業、同年には古河鉱業が久根鉱山買収、四十年久原鉱業が峰之沢鉱山を買収。これらの製品や鉱石も天竜川水運で輸送され、明治末期に天竜川の河川交通は最盛期を迎えました。四十三年には年間に二十石船(約3トン積)四万七千艘が鹿島を通過しています。
遠州鉄道は明治四十三年から貨物輸送を開始、大正十二年に電化され西鹿島からの木材輸送が本格化します。昭和六年、光明電氣鐵道が二俣町駅から深川本所木場までの天竜材輸送を開始すると、一時は遠電を大きく上回る利用があり、光電は船明まで延伸して鉱石輸送も一手に握る計画で期待されたものの資金難で廃線となりました。
大正から昭和初期にかけて、二俣以南の筏による木材輸送は次第にトラックに置き換えられていきます。昭和15年遠江二俣駅開業以降は二俣から国鉄貨物輸送が可能となり、二俣川に筏を曳き込み貯木場が設けられ、二俣周辺には中野町から製材工場が三社移転するなど製材・物流の拠点は上流に移っていきました。
一方、昭和7年には天竜川通船の上り荷は陸上輸送に切り替わっており、下り荷のみとなった水上輸送は急速に衰退していきます。
続く・・・
寄稿文 森下 薫
天竜楽市 天竜茶本舗 代表
参考
天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅の「転車台」と「木造扇形車庫」
転車台と木造扇形車庫(戦後昭和20年代の写真)
天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅構内には、今でも国鉄二俣線時代の転車台と木造扇形車庫、機関区事務所、休憩所などが残っており、これらの建物は、全国的にも貴重な財産であることから、国の登録有形文化財に指定されています。平成23年(2011年)に登録されたものを含め、天竜二俣駅構内の指定施設は10に上ります。
扇形車庫や転車台は、蒸気機関車が使われなくなった現在でも、ディーゼル車の運行に使用されているほか、旅情が漂う木造の事務所や休憩室、浴場も従業員が使用しています。また建物内には、鉄道の歴史を知る写真や資料も展示されています。
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