このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
昨日の寄稿文をご覧いただいた読者の方からのメールが届きましたのでご披露いたします。
「寄稿文を拝読! 文中に昭和六年、光明電氣鐵道が二俣町駅から深川本所木場へ運んだとあり、あの頃はまだ、昭和にはいっても、木場は江戸の雰囲気を漂わせていたに違いない…と懐かしい風景を想像しました。一番好きな広重の深川木場の情景と結び付いて、あぁ〜此処へ天竜川からヒノキが運ばれたのか〜と思って仕舞いました。この絵です!」
名所江戸百景「深川木場」歌川広重 画
現在の天竜川の風景
天竜川の渡船は、東岸の池田の渡し、西岸の船越一色の渡しが知られています。明治七年に中州を繋ぐ最初の木橋が架かり、明治十一年に金原明善によって「天竜橋」が架けられるまで、天竜川を渡るには渡船が一般的でした。
中世以前、鹿島は「今津の渡し」と呼ばれる渡船場として栄えています。鹿島の北で二俣川と阿多古川が天竜川に合流し、南で麁玉河(天竜川西流、小天竜、馬籠川)と廣瀬河(東流、大天竜)に分流しており、山間部と平野部の境目で河道の狭い鹿島は天竜川を渡るのに最適な東西南北交通の要衝でした。鹿島渡船は木鉄混合吊橋の天龍橋が明治四十四年に完成するまで千年以上続けられ、前年まで一日四百人以上が利用していました。
大正二年、二俣と阿多古を結ぶ塩見渡に、両岸に立てた支柱に鋼線を張り、そこから滑車の付いたワイヤーを垂らして船に繋ぎ、水流で船を動かすという画期的な「自動渡船」が導入され、自動車も渡せるようになっています。自動渡船は二俣穴口、川口、伊砂、横山などにも導入されました。
横山では昭和二十二年まで「ダンべー(団平船)」と呼ばれる幅広の船の上に厚板を並べ、バスを載せて運んでいました。架橋によって天竜川の渡船は姿を消していきますが、伊砂の渡船は伊砂橋が完成する昭和五十一年まで永きに亘って利用されました。
天竜川を上下する客船は江戸時代から運航しており、浦川(大千瀬川)、気田(気田川)から掛塚まで下っていました。上流では時又から中部まで下る船があり、二俣が隆盛であった頃、信州から二俣まで天竜川を下っていくことを「二俣へ上る」と言っていたそうです。
明治十五年の日下部鳴鶴(書家、明治の三筆)の天竜峡遊覧、二十四年ウォルター・ウェストンによる天竜下りの海外への紹介などから天竜川観光のブームが起こり、大正元年の英国コンノート殿下など国内外多数の著名人が天竜川を船で下りました。昭和九年、徳富蘇峰は「天龍下りほど林相の美を見たる例がない/海内無比と云ふべき」と絶賛しています。
天竜下りと言うように、上流域では上り便は日数が掛かるため客船は下り便のみでしたが、明治中期には二俣と池田を一日五往復する船便がありました。
大正十年には西渡と鹿島を下り2時間、上り4時間で結ぶ「飛行艇」が登場しています。天竜川飛行艇は飛行機のエンジンでプロペラを回し推進力を得る高速船でしたが、乗合自動車との競争に敗れ昭和六年に鹿島西渡間廃止、十五年に西渡中部間が廃止されました。
明治末期に全盛期を迎えた天竜川の通船は、戦後も細々続いたものの、佐久間、秋葉ダムの完成で遂に終焉となりました。
永年に亘り天竜川の舟運、水上交通が大動脈として遠州の経済発展に与えた影響は計り知れず、掛塚、二俣といった水郷の果たした役割も非常に大きなものといえるでしょう。
続く・・・
寄稿文 森下 薫
天竜楽市 天竜茶本舗 代表
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