このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
瑞浪の里に咲くヒトツバタゴは三日月紋の鶴の化身とか…
土岐源氏発祥の地~みずなみ~
やわらかな線で描かれる屏風山、ここの観音ヶ峰は、平安初期に開かれた桜堂薬師の奥の院があったといわれています。
木曽川の霧の流れる日吉高原には、室町時代に開創された開元院の法灯が、今も明々ともえています。土岐源氏発祥の地「みずなみ」は、古来より又、仏法の栄えた地でもあります。
ヒトツバタゴの真っ白い花のこぼれる里に聞こえる読経の声、花の木の真っ赤にもえる山々に響く夕べの鐘、詩情あふれる瑞浪の里。
瑞浪のヒトツバタゴ自生地
~昔話~その1
遠い北の国から、ことしも鶴が又やってきました。宿の庄屋の娘おさきは、とても鶴をかわいがって世話をしていました。その一羽の背中に三日月の紋のある鶴がいました。北へ帰るほんの少し前のこと、猟師に撃たれたのか、いたちにかまれたのか三日月の鶴が片羽根をとられてしまいました。おさきは、とてもかわいそうに思ってけんめいに手当をしてやりましたが、とうとう死んでしまいました。おさきはそのなきがらをヒトツバタゴの根本にうめてやりました。ヒトツバタゴは、名の通り葉が一枚づつ出ているので、片羽根の鶴と同じだと思ったからです。そして大きくなったヒトツバタゴには、鶴の羽根のように真っ白な花が咲くようになりました。
※この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。
ヒトツバタゴは「一つ葉のタゴ」の意で、タゴはトネリコのことです。木犀科に属し別名をナンジャモンジャといい、新緑の5月、まるで雪をかぶった樹木のように純白の花がおおいかぶさりその景観は実に見事です。分布は国内では対馬と岐阜・愛知・長野の一部に限られ、その自生地は天然記念物に指定されています。
●所在地 瑞浪市釜戸町字森前及び字百田
●問い合わせ 瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
●アクセス JR釜戸駅下車タクシー5分 中央自動車道瑞浪ICより15分
対馬のヒトツバタゴ(奥に見えるのが韓国展望台。対馬から韓国釜山まで49.5kmです。)
ヒトツバタゴはナンジャモンジャ⁉
ヒトツバタゴは呼び名がいろいろある事でも有名です。 海面に白い花が映り、海を照らしている様に見えることから、ウミテラシと呼ばれ。 ナタが折れてしまうほど、幹が固いことから、ナタオラシ。 誰も木の名前がわからず「何の木じゃ」と言っていたものが転じて、ナンジャモンジャ。 このように、4つも呼び名がある木もなかなか珍しいのではないでしょうか。 そんなヒトツバタゴですが、対馬市最北端の鰐浦(わにうら)地区には、約3000本の本種が自生しており、 天然記念物に指定されています。(ドンナモンジャ⁈〜陰の声〜)
毎年5月には「ヒトツバタゴ祭」を開催しています。この珍しいナンジヤモンジヤはウソかマコトか・・・?是非お越しくださいね〜
美濃瑞浪三十三霊場のご案内
【第一番】天徳山 正源寺
明暦2年(1656年)に開山された、臨済宗妙心寺派の寺です。現在の本堂は平成18年に落慶されました。この寺の石幢は延宝4年(1676年)に建立された、高さ2m11㎝の花崗岩製で、瑞浪市の有形文化財に指定されています。六角形の龕部には各面に一体ずつ地蔵が彫られており、当時の六地蔵信仰の流行を伺わせます。
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:釈迦牟尼仏)
●市指定有形文化財/龕部に六地蔵を彫刻した石憧
●所在地/瑞浪市土岐町681
●TEL0572-68-2407
【第二番】瑞巌山 信光寺
土岐町の山間にあった稲葉寺が戦国時代に消失し、その後江戸時代に入って1607年に別の場所に再建されたのがこのお寺です。名前も変わり、当時の土岐城主「信光」の名前をもらって、信光寺と名づけられました。
400年以上の長い歴史を持つこのお寺には、高さ約2m30㎝の、花崗岩を用いた石幢があります。この石幢は瑞浪市の指定有形文化財のひとつであり、六地蔵が彫刻された保存状態の良いものです。
立派な鐘楼門も一見の価値があります。
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:十一面観世音菩薩)
●市指定有形文化財/龕部に六地蔵を彫刻した石憧
●所在地/瑞浪市土岐町2325
●TEL0572-68-3090
【第三番】龍吟山 天猷寺
~昔話~その2
備前の国原城には、キリシタンの旗がぶきみにはためいていました。旗本馬場利重は家来たちと一緒に命令を待っています。敵は、百姓町人それに女子どもまでまじっています。利重の槍(備前兼光作の名槍)は今までに幾人ものキリシタン信者の血を吸ってどんより曇っています。やがて出陣の命令が出て、激しい戦が続き翌年になってようやく城を落とすことができました。戦で使った血ぬりの槍は、居間にかけてありましたが、ある夜家来がそれを持ち出し、狂ったように人を傷つけました。手元に置くのは良くないと釜戸の天猷寺へ送りその槍で死んだ人の冥福を祈ってもらいました。その後この血槍は土蔵へ納められていましたが、蔵から出された時に、お坊さんがけがをしたり、強盗が入り小僧さんが斬り殺されたり、きまって悪いことがおきました。それから一層注意がはらわれ、血槍は土蔵の中にしっかり納められています。
※この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。
元和2年(1616年)、土岐・恵那・可児郡の内で1,600石を統治した旗本・馬場晶次が父の菩提のために建立した馬場氏の領内菩提寺です。寺には馬場氏代々と僧侶の使用した駕籠や詩経物産図譜などがあり、本堂裏には馬場氏累代の大きな墓石があります。 山門は天保6年(1835年)に、釜戸町神徳字西山地区自生地の大木をもって建立したもので、国内唯一のハナノキで作られた希少な山門です。 天猷寺は「椿寺」とも呼ばれ、椿の花の時期には多くの人々が訪れます。 山門のほかに、駕篭、詩経物産図譜、旗本馬場氏累代の墓が市の文化財に指定されています。
●所在地 瑞浪市釜戸町1540-1
●問い合わせ 瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
●アクセス JR釜戸駅下車徒歩10分 中央自動車道瑞浪ICより15分
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:釈迦如来)
●TEL0572-63-2044
【第四番】秀峰山 圓通閣
道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内・近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。宿の大火で類焼し弘化4年(1847年)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。難病平癒(へいゆ)の霊験があり近郷近在の崇敬を受けています。
観音堂天井画
江戸時代、弘化4年(1847)。この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現中津川市付知町の画人 三尾静(暁峰)の描いたものです。
花鳥草木を主に60枚描かれており、出来も色彩もよく100年の歳月を感じさせない逸品です。
●宗派/宗昌寺所属(御本尊:聖観世音菩薩)
●市指定有形文化財/江戸時代の絵天井(60枚)
●所在地/瑞浪市大湫町
●TEL(呼)宗昌寺0572-63-3166
【第五番】金城山 宗昌寺
開山は、関ヶ原の合戦のあとの慶長五年(1600年)。大湫村を開いた保々宗昌により開山されたためこの名前となりました。大湫宿を見下ろす高台にあり、そこからの景色も抜群です。入口付近には「中山道 大湫宿」の立派な石碑が立っています。
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:釈迦如来)
●所在地/瑞浪市大湫町529
●TEL0572-63-3166
【第六番】龍雲山 宝珠寺
釜戸町の高台に建つ臨済宗のお寺です。参道脇の小さな十六羅漢や山門脇の三十三観音など、数々の石像石仏を見ることができます。寺院前にはのどかな風景が広がります。
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:聖観世音菩薩)
●所在地/瑞浪市釜戸町4071
●TEL0572-63-2423
【第七番】定林山 光春院
慶長16年(1611)に創建、元禄5年(1692)に再興されたと言われる臨済宗の寺院です。
慶応4年(1868)に当時流行していた俳句・俳諧の句会が光春院で開催され、その際に奉納された37枚の句額が、現在瑞浪市の有形文化財に指定されています。色彩豊かに描かれたこの慶応句額群を是非ご覧ください。
●宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:聖観世音菩薩)
●市指定有形文化財/慶応旬額群(37枚絵入り)
●所在地/瑞浪市釜戸町580-2
●TEL0572-63-2160
【第八番】瑞櫻山 櫻堂薬師
~昔話~その3
今の櫻堂のあたりにとても大きい池があって、いつごろからか恐ろしい竜がすみつき、小舟にのっている人を飲み込んだり、村々を荒らしたりしていました。近くの里に月吉と日吉という若者がいました。二人とも不思議な夢をみました。「早く竜を退治して里の人を救ってやりなさい 明日の朝、二人そろって池のほとりへ来なさい」二人は池へ行くとそこで如来様を見つけました。急いで強い弓を作り、矢をととのえ池のほとりに立つと、晴れていた空に雷が鳴り始め竜が火をふきながら二人に向かってきました。竜が近づくのを待って、口の中へ矢をいこみました。「ガァーッ」ともだえる竜に矢を放ちつづけると、とうとう竜は真っ赤な血をふいて沈んでいきました。大きな池は盛り上がり里ができました。二人は桜堂に薬師堂を建てました。今でも月吉の里、日吉の里、土岐の里はとても栄えています。
※この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。
お薬師様は、昔は「瑞櫻山 法妙寺 薬師堂」と言っていました。
このお薬師の歴史は今から約1300年近く前から始まります。
奈良時代(710年)元正天皇の皇女様がどうしても直らなかった悪い病気を、神のお告げで知ったこのお薬師に祈願されたところ直ちに良くなられ、喜んだ天皇は全国にお薬師の信仰を奨励されたとの事です。
この時天皇のお礼の手紙を持った勅使が渡られた橋を勅使橋といいます。
約1200年前の弘仁3年の頃(812年)嵯峨天皇の勅願寺として「三諦上人」がこのお薬師を開かれました。この頃、天皇が病気にかかられこの寺の住職の三諦上人に全快の祈願を願われたところ、すっかり病気が治り、天皇の命令でこの寺の修理・増築を指示され、お堂やお寺が二十六から三十六と言われるほど沢山のお寺が立ち並びました。
そして「高野山」や「比叡山」と並び日本の三山と言われる様になり、毎日の読経の声が近所の村々にまで聞こえたと伝えられています。
高野山真言宗総本山 金剛峰寺 大門
天台宗総本山 比叡山延暦寺根本中堂
この全盛を極めたこのお薬師も、その後約五百年の間(1300年頃)には戦乱が続き、お堂・お寺も次々と荒れて少なくなり、衰退してしまいました。
しかし、この頃鎌倉幕府から、お寺の領地を頂いて修理・修復をし、お寺の数が二十四と以前の勢いを取り戻し比叡山の末寺となって続いていました。
元亀二年(1571年)に武田信玄、織田信長の戦乱に巻き込まれ、信長の家来の兼山城主の「森長可」にこのお薬師を焼かれてしまいました。
後にこの様な歴史のある寺を焼いた事を悔やんだ森長可と、鶴ヶ城主の土岐三兵信友が仏像の作成、修理をし復興がされました。
西暦1600年の頃は、この辺りの殿様は岩村城の松平家乗・松平乗壽でしたが、とても信仰が厚く乗壽公は三度病気にかかられ、三度ともこのお薬師にお参りして、すっかり良くなられたとの事です。
そしてこの頃多くの絵馬が奉納されました。
ところが乗壽公が静岡県浜松の方へ移られてしまい、それに加え悪い病気が流行し、人の心も荒み、このお薬師も見る影もなく衰退してしまいました。
そして60年位が過ぎた頃、天台の「永秀」と言う偉いお坊さんが立ち寄られました。
昔の面影もない荒れ果てたお寺の姿を土地の長老から聞いて悲しみに耐え兼ね、この寺の復興を決意されます。
しかしこの永秀師も病気にかかられてしまい、枕元に弟子の「賢秀」を京都から呼んで、何とかこのお寺を復興する様に望みを伝えられました。
こうして永秀師の望みを聞いた賢秀も、復興する事を決意し岩村城主の丹羽式部少輔氏純にお願いし、寛文7年(1667年)に復興を遂げます。
お開帳には比叡山の偉いお坊さんを招いての大法会、国内、近隣の参拝者の目を奪う程の盛大な法要であったそうです。
観音堂
隣接する「観音堂」は屏風山麓の大悲山に、峰山観音として祭られておりましたが堂宇荒廃を極めた為、移奉したものです。
本尊、聖観音は鎌倉以前の作と伝えられております。
本尊左側には開祖「三諦上人の座像」右側には中興開山の「賢秀座像」が祀られてており、体内には中興の由来が詳細に記録されていると伝えられています。
また、その横には岩村藩の松平和泉守乗寿公、丹羽家歴代の位牌が祭られております。
平成22年(2012年)には開基1200年として1200年祭イベントや文化財の展示会などを開催しました。
地域の保存会やボランティアにより大切に守られている貴重な史跡です。
弁財天
糸桜(しだれ桜)
ある時、花の盛りになにもののしわざとも知れず「ときにきたれどむすびめもなし」と下の句を書いて、この桜の枝に結びつけてありました。誰もこの句にうまく上の句が出来なかったのですが、鎌田二郎左衛門尉義行(かまたじろうざえもんじょうよしゆき)(岩村藩士)という人が「ふき結ぶ風にみだるる糸桜」と付けたという話が尾張の長母寺(ちょうぼじ)に晩年を送った無住(むじゅう)法師の「紗石集(しゃせきしゅう)」に書きとめられています。鎌倉初期には宮廷ばかりではなくひろく庶民の間にも二句唱和と称せられて、春らんまんと咲き乱れるしだれ桜の下で多くの人たちが寄り集まって歌に興じました。それは、しだれ桜の形から霊魂が伝わって降りて来るといった信仰が人々の間にあり、その花鎮(はなしず)めのお祭りでもあったのです。この桜堂でも、あるいは都で盛んであった花の下(はなのもと)連歌と同じような形で行われていたのでしょう。
●所在地 瑞浪市土岐町(字櫻堂)5728
●問い合わせ 瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
●アクセス JR瑞浪駅下車タクシー5分 中央自動車道瑞浪ICより10分
●宗派/(元)天台宗(現)信光寺所属
●TEL(呼)信光寺0572-68-3090
桜堂薬師保存会
●所在地 509-6101 瑞浪市土岐町5944
●問い合わせ TEL.0572-68-3690
瑞浪市のお宝
櫻堂薬師櫻堂薬師仁王門・仁王像
仁王門は、寛文5年(1665年)の絵図により、単層八脚門切妻造り、檜皮葺きあるいは杮葺きでしたが、寛延3年(1750年)に入母屋造り本瓦葺きに改められました。
平成19年の「平成の大修復」では、破損、腐朽の部分を補修し全面本瓦葺きとなりました。
仁王像は、地元の人からは「おにょう様」と呼ばれ、阿形像は像高2.89m、吽形像は像高2.93mです。元禄10年(1697年)に尾張熱田の仏師箕輪幸慶によって再造彩色されていましたが、平成20年に解体大修復により室町時代後期の造立当時の姿に戻されました。
江戸時代。櫻堂薬師の絵馬は7枚が現存しており、本堂回廊に飾られている「慶長絵馬」(岩村藩主松平氏が奉納)・「寛文絵馬」(岩村藩主丹羽氏が奉納)・「亨保絵馬」(風俗絵馬、名古屋の薬問屋が奉納)・「文政絵馬」(松に鷹図、岩村藩主松平氏が奉納)は市、県の重要文化財なっており、県内届指の絵馬の宝庫と言われております。
室町~江戸時代。仏像群は火災の際、本堂の東、金剛坊の林の中へ避難して無事焼失を免れて現在、本堂に安置されております。
「本尊」「日光」「月光像」「十六善神」は室町時代後期の作と伝えられています。
また「四天王像」「十二神将」は神篦城主の土岐三兵信友が仏師5名に命じて作らせたと伝えられております。
岐阜県重要有形文化財(工芸品)指定。舞楽面とは、奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、舞楽の動作に合うよう象徴風に造られています。
わが国でも最も盛大に行われるようになったのは、平安時代で宮廷や神社、寺院などで行われ、この時代の代表的な舞楽面は春日大社、厳島神社、法隆寺などに残っています。
当薬師の舞楽面のうち、「羅陵王」、「納曽利」の二面は、顎が動くように造られており、「拔頭」を加えて三面が残っていることで、岐阜県としては誠に珍しいものです。
このうち、「羅陵王面」を例にとると、鎌倉時代の作りと推定されており、技法は精巧で、漆が用いられて盛上彩色がなされ、材は檜、内面は麻布が漆で固め張られています。
この「陵王」「納曽利」「抜頭」三面の舞楽面は、元亀2年(1571年)10月の織田信長の兵火からまぬがれた現存する往時のもので、櫻堂薬師の歴史を立証する一方、県内においても貴重な文化財の一つです。
なお、展示の舞楽面は、瑞浪市窯業技術研究所に依頼し、陶器で作られたもので、実物を二倍に拡大したものです。
平安時代、元慶3年(879)。岐阜県最古の在銘石造物。弘仁3年(812)に法妙寺(櫻堂薬師)を開いた高僧三諦上人の供養塔。当時法妙寺は、比叡山、高野山と並んで日本三山の一つと称された。
『当薬師が嵯峨天皇の勅願寺であった頃の全盛時から、今日までの歴史の集積とも言えるこの石塔群は鎌倉から室町時代に亘る貴重な石塔群であり、全盛時には三十六坊とも二十四坊とも伝えられた面影も今はなく、開山の三諦上人、中興の師永秀、賢秀師のほか、中興二世、中興三世の代々住職の供養塔を中心にして、かつて桜堂の各地、奥山の山中に跡を残す坊跡に散らばる苔むす五輪塔、宝匤印塔を拾い集めて祀ったのがこの石塔群です。
応永9年10月13日(1402年)の刻印のあるものもありますが、今や古老のなかの記憶となりつつある現在、かつての坊が地名として僅かに残っているに過ぎませんが、私達はこの数々の石塔が坊の名前と共に何故か身近に感じられます。
由緒ある桜堂の歴史と共に生きてきたこの石塔群を、坊名と共に次の世代に末永く守り引き継いで行きたいと思っております。』
・本坊…妙法寺、根本地山安院、東乃坊、西乃坊、南乃坊、北乃坊、金泉坊、洞乃坊、満月坊、家乃坊、吉祥坊、杉本坊
・被官坊…中円坊、不動坊、里乃坊、よりき坊、じやがね坊、宝林坊、金剛坊、寂乃坊、大通坊、中陰坊、多聞坊、荒神坊
余談
夜も更けてまいりました当編集局のマスコット「ヤモリ」一週間ほど見かけないと思ったら知らぬ間に二匹となり、夜になると灯りを求めて集まる害虫の駆除開始です。
鎹八咫烏にはとても真似できません。本日はここまでといたします。
続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
瑞浪市観光協会
〒509-6121 岐阜県瑞浪市寺河戸町1043-2 瑞浪商工会議所内 電話: 0572-67-2222
大湫町コミュニティ推進協議会 大湫コミュニティーセンター内
〒509-6471 岐阜県瑞浪市大湫町422-1 TEL:0572-63-2360
森川訓行家住宅(丸森) 〒509-6471 岐阜県瑞浪市大湫町電話:0572-63-2455
(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしまTEL 0920-52-1566
(公社)びわこビジターズビューロー 〒520-0806 滋賀県大津市打出浜2番1号
「コラボしが21」6階TEL: 077-511-1530
高野山真言宗総本山 金剛峰寺〒648-0294 和歌山県伊都郡高野町高野山132
電話: 0736-56-2011
天台宗総本山 比叡山延暦寺〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
電話: 077-578-0001
参考
(順不同・敬称略)
約1200年前「瑞櫻山 櫻堂薬師」は高野山、比叡山と並び日本の三山と言われていました。
高野山真言宗総本山 金剛峰寺とは
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。 それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。 手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されたのでした。
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。
「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち52ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
天台宗総本山 比叡山延暦寺とは
比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開立してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、山門と呼ばれています。
杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)だった日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。
戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き討ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。
ドライブウェイ・ケーブル・各バスなどを利用して、山上まで比較的簡単に参詣することができます。根本道場であり、もっとも交通の便のよい東塔だけを拝観する人が多いですが、さらに厳粛な空気が漂う西塔・横川の方へ、東海自然歩道を歩いて参詣するのも深い趣が味わえます。
〈国宝〉根本中堂 宝相華蒔絵経箱 金銅経箱 七条刺納袈裟 刺納衣 伝教大師将来目録 羯磨金剛目録 天台法華宗年分縁起 六祖恵能伝 伝教大師入唐牒嵯峨天皇宸翰光定戒牒
〈重文〉根本中堂廻廊 転法輪堂 戒壇院 瑠璃堂相輪
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
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