ZIPANG-2 TOKIO 2020「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その2【五稜郭】」

このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。

西洋建築群

【五稜郭の歴史】幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭

五稜郭 - 箱館御役所の誕生


五稜郭冬ライトアップ 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。冬には、隣の五稜郭タワーからライトアップされた星形城塞が一望できる。


ペリーの黒船来航に始まる日本の夜明け

徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていました)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。


「箱館御役所」としての「五稜郭」は日本最初の西洋式城郭都市だった

開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。

五稜郭夏 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。夏には、隣の五稜郭タワーから緑豊かな星形城塞が一望できる。

当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。

「五稜郭」とは、近世西洋式城郭の特徴的な構造「稜堡」に学び、
星形五稜にした通称である


これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に従い、さらに独自の工夫も加えたものである。


安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。

箱館奉行所は、約150年前に五稜郭の中央に建てられた江戸幕府の役所(復元)。周囲を桜や松の木に囲まれ、和の雰囲気に満ちる。


箱館奉行所は、日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所である。
当初は箱館山の麓に置かれましたが、内陸の地に移転が計画され、その外堀となる五稜郭と共に1864年(元治元年)に完成しました。 1868年(明治元年)戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の舞台となり、旧幕府脱走軍降伏2年後の1871年(明治4年)に解体されました。 地上に存在した期間はわずか7年。 2010年(平成22年)、可能な限り建築当時の材料・工法を使用し、庁舎の1/3の規模を復元。幕末から明治維新にかけてのピンと張りつめた時代の空気が感じられる貴重な歴史遺産の空間である。 


幕府脱走軍による五稜郭占拠 - 開戦


「鎖国政策」とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りをみせ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことにより、慶応3年(1867)、徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府は崩壊した。


箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。

五稜郭春 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。春には、隣の五稜郭タワーから桜満開の星型城郭が一望できる。

箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、同年正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は顕かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(「上野戦争」)などにより、陸軍はほぼ壊滅した。


江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかった。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。


明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった脱走艦隊は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を始めた。


榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。戦闘経験の豊富な脱走軍に対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、脱走軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は脱走軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。

五稜郭秋 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。秋には、隣の五稜郭タワーから紅葉に彩られた星型城郭が一望できる。

箱館を抑えた脱走軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。この間、陸軍支援のために松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、脱走軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。


明治新政府軍の反撃 - 終戦


脱走軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。 しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府脱走軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。幕府脱走軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。


蝦夷地への北上途中、宮古湾での脱走軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。


5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった脱走軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。 陸軍副総裁として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。


脱走軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、脱走軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として脱走軍に降伏を勧告した。


箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による脱走軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府脱走軍の首脳者は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した脱走軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府脱走軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。


榎本ら旧幕府脱走軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。


公園として、文化財として - その後の五稜郭


箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。


その一方で人々は五稜郭を積極的に利用していた。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。

五稜郭冬 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。冬には、隣の五稜郭タワーから雪に覆われた星型城郭が一望できる。

また、函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用されている。

五稜郭公園の満開の桜と五稜郭タワー

約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。春には、桜の花の下、貸ボートで堀を一周することができる。  

公園として親しまれていると同時に、五稜郭は、幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。そして、国宝に準ずる文化財として保存整備事業が進められ、石垣の修理や橋の架け替え、更には五稜郭に関る絵図面や文献資料の調査を経て、昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ、この結果に基づいて平成22年(2010)、庁舎全体の建築面積の3分の1とはいいながら、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度での復元をみたのである。

   

五稜郭の歴史・略年表

年 月  五稜郭・箱館戦争関連事項

安政1 1854 3月4月6月
日米和親条約締結。箱館の開港決定 アメリカ艦隊が箱館に来航 箱館奉行を設置

安政2 1855 3月  箱館港を和親開港

安政3 1856 8月  箱館諸術調所を設置

安政4 1857 6月  五稜郭の建設工事着工

元治1 1864 6月  五稜郭へ奉行所を移転

慶応3 1867 10月  大政奉還

慶応4 1868 4月8月19日9月  新政府が五稜郭に箱館府を設置 旧幕府艦隊 品川沖を脱走 明治に改元明治11868 10月20日10月26日11月5日12月15日 旧幕府軍、鷲ノ木に到着 旧幕府軍、五稜郭を占領 旧幕府軍、松前を占領 旧幕府軍、蝦夷地平定

明治2 1869 3月9日4月9日4月17日5月11日5月18日 新政府軍艦隊,品川沖を出航 新政府軍、乙部へ上陸開始 新政府軍、松前を奪回 新政府軍、箱館を総攻撃 旧幕府軍降伏。五稜郭開城

明治3 1870 2月  五稜郭の堀で天然氷を採氷

明治4 1871 4月  五稜郭内の建物を解体

大正3 1914 6月  五稜郭を公園として開放 昭和27 1952 3月  五稜郭を特別史跡に指定 


五稜郭主要データ

史跡指定範囲の面積  約251,000㎡(東京ドームの約5倍)

堀の周囲  約1.8km

史跡指定地の周囲  約3km

堀の幅  最大幅、約30m

堀の深さ  約4〜5m

土塁の高さ  5〜7m

土塁の厚さ  約27〜30m(底部)

直径  約500m(東西約500m × 南北約500m

別称  「亀田御役所土塁」、「柳野城」


四稜郭

四稜郭は明治2年(1869)箱館戦争の時に、五稜郭から北東約3kmの丘陵に築造された洋式築城です。 蝦夷地を領有した旧幕府軍が、新政府軍の猛攻撃で箱館(函館)方面に後退。そこで、箱館(函館)近郊を一望でき、さらに五稜郭や東照宮(鎮守府)などの防御を行うために築造したのが四稜郭でした。旧幕府軍と住民約300余名で、昼夜の工事により短期間で完成したのですが、5月11日の新政府軍の総攻撃により陥落したと伝えられている。

蝶(ちょう)が羽根を広げているような形から、四稜郭と名付けられました。広さは約21,500平方メートルあり東西に約100m、南北に約70mに、幅5.4m、高さ約3mの土塁が巡り、周辺には幅2.7m、深さ0.9mの空壕(からぼり)が往事を偲ばせています。門口は南西側に設けられ、四方に砲座を配置してある。

昭和9年(1934)国の史跡に指定されました。

「五稜郭北方ノ守備地トシテ築造セシモノナリ五稜郭ノ北々東約三キロメートル丘陵傾斜地ニアリ東方ニ凾館灣西方ニ外洋ヲ望ム四稜形ニ土壘ヲ築キ前面入口右方ナル土壘前ヲ除クノ外外側ニ空濠ヲ周ラセリ郭内ノ一部既ニ破壞セラレタルモ尚ヨク舊態ヲ存セリ」とある。


五稜郭タワーとは 

五稜郭タワーは、五稜郭築城100年を記念して昭和39年(1964年)年12月に初代タワー(高さ60m)が 建造されました。

旧タワーは市民や観光客 の皆様の目を通して、41年間に渡り親しまれてきましたが、 新タワー完成によりその使命を新タワーに託し、平成18年(2006年)年6月に解体されました。


平成18年(2006年)4月1日にオープンした新タワー(2代目)は高さ107m(避雷針髙)。

展望台から見はるかす函館山や津軽海峡、横津連峰の山並み、そして特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の 眺望が観られる。

展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や強化ガラスの床で下が見える 「シースルーフロア」、「売店」、「カフェスタンド」などがある。

新タワーでは建物自体が五稜郭に対するこだわりを表現している。 展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしている。


こぼれ話

日本にもう一つある五稜郭

長野県佐久市龍岡城跡

龍岡城五稜郭は、慶応3年(1867年)に龍岡藩主「松平乗謨」(まつだいらのりかた)によって造られ、函館の五稜郭とともに日本に2つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭である。

江戸幕府はこの当時に城を新たに造ることを禁止していましたが、幕府の重要な役についており、西洋の軍楽に関心を寄せていた松平乗謨は特別に許可をもらい、フランスのリール市の星形の堀をもつ城郭ボーバン城をモデルとしてこの龍岡城五稜郭を建築した。

星形の城の起源は、16世紀頃のヨーロッパで戦乱の相次ぐ中で町全体を城壁で囲んだ「城郭都市」が数多く造られましたが、銃や大砲が発達してくるとこれに対抗して防御側の死角を少なくする構造が考案されたそうである。

この構造を取り入れた龍岡城は元治元年3月(1864年)より着工して藩主の政務と住居をかねた御殿や大手門、東通用門などが完成し、慶応3年4月(1867年)に竣工祝いを行っています。

しかし堀は三稜堡をめぐるだけで、南西と西側二稜堡を囲む約270mは未完成でした。建物も瓦は全部準備されながら一割程の使用であったと伝えられています。

明治維新により江戸時代が終わると、龍岡城五稜郭の中のお台所に、近くのお寺(蕃松院)から子どもたちの学校「尚友学校」が移転し、現在も佐久市立田口小学校の校地として使われており、お城の中に学校が建設されているという全国でも珍しい小学校となっている。

また、松平乗謨は維新後に「大給 恒」(おぎゅう ゆずる)と名乗り、日本赤十字社の設立に尽力され、龍岡城五稜郭の中にその胸像が建立されている。


交通アクセス

JR函館駅から

市電「函館駅前」~「五稜郭公園前」下車、徒歩約15分

運賃:函館駅前 ⇔ 五稜郭公園前(所要時間:約16分 料金:230円)

函館バス「函館駅前」~「五稜郭」下車、徒歩約15分

函館バス「函館駅前」~「五稜郭公園入口」下車、徒歩約7分

函館バス 五稜郭タワー・トラピスチヌシャトルバス「五稜郭タワー前」下車、徒歩30秒

運行日:毎日運行(年末年始は運休あり)
運行期間:2017/4/1〜10/31 運賃:函館駅 ⇔ 五稜郭タワー前 240円
トラピスチヌ前 ⇔ 五稜郭タワー前 260円
函館空港 ⇔ 五稜郭タワー前 300円

利用できるもの:現金、カンパス、バス・市電共通1・2日乗車券、回数券、バスカード、乗継券、         全国相互利用交通系ICカードのみ。

問い合わせ

※市電のお問合せは、函館市企業局交通部 電車担当(6:07〜23:14)TEL 0138-52-1273 まで。
※函館バスのお問合せは、TEL 0138-22-8111(7:30〜19:00)まで。

JR五稜郭駅から

※函館バスのお問合せは、TEL 0138-22-8111(7:30〜19:00) まで。

JR新函館北斗駅から

問い合わせ

※JR北海道へのお問合せは、JR北海道電話案内センター TEL 011-222-7111 (6:30〜22:00)まで。
※JR新函館北斗駅へのお問合せは、TEL 0138-83-5057 (6:00〜22:00)まで。
※JR函館駅へのお問合せは、TEL 0138-23-3085(5:30〜22:00) まで
※函館帝産バスへのお問合せは、TEL 0138-55-1111 まで。
※北海道観光バスへのお問合せは、TEL 0138-50-4000(9:00〜18:00)まで。
※函館バスへのお問合せは、TEL 0138-22-8111(7:30〜19:00)まで。

函館空港から

フェリーターミナルから

問い合わせ

※函館バスのお問合せは、TEL 0138-22-8111(7:30〜19:00)まで。

自家用車でお越しのお客様へ

五稜郭タワーには、自家用車駐車場のご用意はございません。 誠に申し訳ございませんが、お車でお越しの際は、五稜郭タワー周辺にございます下記の有料駐車場をご利用くださいますようお願いいたします。

五稜郭タワーまでの所要時間

JR函館駅から(約3.5km) 車で約15分、市電で約30分、函館バスで約20分
JR五稜郭駅から(約2.5km) 車で約10分、函館バスで約20分
函館山から(約10km) 車で約30分
湯の川温泉から(約4km) 車で約15分
函館空港から(約8km) 車で約20分
トラピスチヌ修道院から(約7km) 車で約25分 フェリーターミナルから(約5km) 車で約20分
道央道大沼公園ICから函館新外環状道路経由(約32km) 車で約40分

五稜郭・五稜郭タワー・箱館奉行所は、どんな方法でどこから来られても便利です。訪ねてみて下さい。


五稜郭タワーの所在地
〒040-0001 北海道函館市五稜郭町43-9 TEL 0138-51-4785 FAX 0138-32-6390
五稜郭タワー株式会社


ところで…
五稜郭が、日本に二つ存在するとは知りませんでした。
それにしても函館は、外国の良いところや進んだ文化をいち早く取り入れ、実践していく、その気風は早くから北海道唯一の貿易港として外国との交易により培われたことも一因のようですね…


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

五稜郭タワー株式会社 〒040-0001 北海道函館市五稜郭町43-9 TEL 0138-51-4785

函館奉行所 〒040-0001 函館市五稜郭町44番3号 電話 0138-51-2864

函館市役所 〒040-8666 北海道函館市東雲町4番13号 TEL:0138-21-3111(代)

佐久市役所 〒385-8501 長野県佐久市中込3056 電話:0267-62-2111(代表)

文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。 




ZIPANG-2 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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