このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
慶祝!〜本年は【北海道】と命名されて150周年〜
平成30(2018)年は、明治2(1869)年に蝦夷地が「北海道」と命名されてから150年目の節目となりま す(明治元年から起算して満150年となる「明治150年」)。 安政6(1859)年の箱館(函館)港開港以降、様々な国との貿易を行っています。
えっ?150年前まで【蝦夷が島】だったの?
明治前期 【明治2(1869)年~同25(1892)年】
明治以前の北海道では、函館港のみが貿易港として開港しており、ロシア領海への出漁が対象となる漁業貿易が特色であったことから、輸出品は漁業関連物資や食料品、輸入品は漁獲した海産物類が 主でした。 その後、明治に入り函館港は豊富な海産物を輸出するための基地として発展し、昆布や鮑(あわび)、 煎海鼠(いりこ※)、鯣(するめ)等を中心に輸出されていました。 輸入については、主に函館に居留する外国人が使用するため、繊維製品 や砂糖類等が輸入されていましたが、輸入額としては僅少なものでした。 また、明治7(1874)年頃からは肥料や火薬の原料として、北海道で豊富 に採掘された硫黄が徐々に輸出され始め、同16(1883)年を境に輸出貿易を 支える主要品目となりました。
※煎海鼠:ナマコの腸を取り除き、塩水で煮た後乾燥させたもの。
知ってました〜?
今でこそ至極当然に堂々たる「北海道」ですが、明治以前は"蝦夷地"(えぞち)とか"蝦夷が島"(えぞがしま)などと呼ばれていたんですよ〜
次々と開港した小樽港・室蘭港・釧路港・根室港の役割分担
明治後期 【明治26(1893)年~同44(1911)年】
明治32(1899)年に小樽港・室蘭港・釧路港が開港しました。小樽港は石炭や木材等林産物の輸出増加のため、室蘭港は石炭の輸出が増加したため、また、釧路港は木材のほか硫黄を輸出するためです。 さらに、同43(1910)年に、根室港が水産物を輸入するため開港しました。 明治後期には石油がロシアから函館港に輸入されるようにな り、主要輸入品となっていきます。 同27(1894)年の日清戦争後は、枕木や挽材(製材)、石炭の輸出増 加を目的に、国策として内陸の奥深くまで開拓することとなったこ とから、道鉄や軌条等の鉄道資材※の輸入が増加していきます。 同37(1904)年の日露戦争を境に港別の特色が鮮明となり、函館港 は海産物や硫黄、小樽・釧路港は木材、室蘭港は石炭、根室港は海産物と、輸出貨物の取扱いが棲み分けされていきます。
※道鉄:当時の汽車や貨車等、軌条:レール
北海道の輸出向け主要品目が硫黄と鉄道枕木だった…
(あの美味しい蟹や帆立、男爵やメイクイーンじゃなかったんですね?)
大正時代 【大正元(1912)年~同14(1925)年】
大正時代に入ると、明治後期に北海道の輸出主要品であった硫黄が全国シェア約50%を超えていま
す。また、漁業貿易における輸出入実績も飛躍的に増加しました。朝鮮半島との貿易も盛んに行われ、
ほとんどが鉄道枕木等の木材類の輸出でしたが、塩鮭鱒等も輸入されています。
その後、大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦の影響を受け、木材類の輸出が一時的に減少した
ものの、英国やフランス等への豆類やでん粉等農産物の輸出が大幅に増加しました。
明治末期から第一次世界大戦前後にかけて、北海道内の開拓が急
激に加速するのに伴い人口も著しく増加し、輸送のため大量の鉄鋼
材や軌条等が輸入されました。
北海道では、農業や漁業を土台に醸造業、製粉業、缶詰業等の食
料品工業を始め軽工業が大きく成長しました。また、製缶用のブリ
キ※も多く輸入されています。
※すずをめっきした鋼板。常に水分と接触する部材に使用されるほか、明治初頭には「ブリキの
おもちゃ」と呼ばれるロボットや乗物のような形に成形・塗装した玩具も作られていました。
※函館税関の資料による
エキゾチックな和洋折衷の景観美〜その訳は・・・??
明治期函館は北海道を代表する(特に明治前期)唯一の貿易港であり、大勢の外国人が居留しており、函館の街の中に現存する貴重な歴史の生き証人ともいうべき函館に特筆すべき和洋折衷建築群の街が誕生していったのですね。
函館山展望台からの眺望。「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に、最高評価の三つ星として掲載された。冬は白い雪に覆われた特別な夜景が見られる。
八幡坂
坂の多い函館で、最も人気のある記念写真スポット。映画やCMのロケ地としても有名。石畳の坂の向こうに、海が見渡せる。
函館の陸上交通の拠点、函館駅。駅前広場には、冬の間、美しいイルミネーションが設置され、雪景色とともに美しい夜景が楽しめる。
洋風建築と伝建地区に見る日本伝統の職人技とその美的感性
西洋建築群
〜幾度もの災難に生き残った旧金森洋物店の奇跡〜
旧金森洋物店
100年以上前に珍しい輸入品を扱っていた商店の建物。現在は、当時の生活を伝える「函館博物館 郷土資料館」になっています。
明治11年(1878)の函館大火は、中心街が焼野原と化し、翌明治12年にも、市中の3分の1(2,326戸)が焼け、ほとんどの市街を失いました。2年続きの函館大火により開拓使は、市街の区画整理と不燃質家屋の奨励に乗り出し、一部の有力商人がその施策に応じました。
明治12年の大火でその経営する洋物店の本・支店が被災した初代渡辺熊四郎もその1人で、明治13年11月、西欧と日本の建築技術を駆使した開拓使の茂辺地煉瓦製造所製の煉瓦を使用した洋風不燃質店舗「金森洋物店」を竣工、開店させました。設計は池田直二が担当しました。
当時の金森洋物店は、西欧文化を謳歌する函館人気質と相まって衣食住に関わる舶来製の小間物、雑貨品を販売し賑わいました。市内の半分を焼失した明治40年の大火では、周囲の不燃質店舗がことごとく焼失する中で、幸いにも金森洋物店のみが類焼を免れました。
その後、大正14年(1925)まで金森洋物店として使用されたこの建物は、昭和43年に十勝沖地震で被害を受けましたが、道の補助により復旧されました。その後、渡辺家から市に寄付され、昭和44年から市立函館博物館郷土資料館として活用されてきましたが、建物の老朽化のため、平成10年(1998)、11年の2か年にわたり全面的な復元改修工事が行われました。
はこだて明治館ー(春)
100年以上前に建てられた旧函館郵便局。現在は、みやげ店や雑貨店が集まる商業施設として賑わう。赤レンガを伝うツタの葉の緑が美しい。
はこだて明治館ー(秋)
春と秋ではガラリと変身〜!
赤レンガを伝うツタの葉は紅葉し、暖色系グラデーションの衣を羽織ると一層重厚さを増す。
はこだて明治館(冬)
自然界の法則は冬ごもり。人間様はそうも行かない…人々は温もりを求めて夜の街を彷徨う。函館の夜はライトアップされ、冬は街路樹にイルミネーションも。
函館市地域交流まちづくりセンター
かつての百貨店の建物を利活用した、市民や旅行者のためのコミュニティセンター。観光エリア「西部地区」のランドマークとなっている。
函館市地域交流まちづくりセンター
かつての百貨店の建物を利活用した、市民や旅行者のためのコミュニティセンター。クラシックなデザインに、夜間のライトアップが映える。
函館市地域交流まちづくりセンター
かつての百貨店の建物を利活用した、市民や旅行者のためのコミュニティセンター。ベイエリアの飲食店・ショッピングモールにも近い。
函館中華会館
函館在住の華僑が100年以上前に建てた、純中国様式の建物。館内は関羽を祀る「関帝廟」形式の集会場。現在は外観のみ見学できる。
太刀川家住宅店舗
100年以上前に建てられた、函館有数の商人の住宅兼店舗。現在はカフェとして営業している。国指定重要文化財。
函館市旧イギリス領事館
約100年前に建てられたイギリスの領事館。現在は「開港記念館(展示室)」と、ティールームとして活用されている。夏には庭にバラが満開になる。
旧北海道庁函館支庁庁舎
明治42年に北海道庁技師家田於菟之助の設計により建設され、明治43年に完成しました。函館区が函館市となった大正11年(1922)から昭和25年(1950)まで渡島支庁庁舎として、その後は北海道関係施設として昭和32年まで使用されました。以後は、函館市の所有となり、准看護婦養成所や失業対策事業の作業所を経て、現在は函館市写真歴史館・函館市元町観光案内所として活用されています。
旧相馬邸
針葉樹と広葉樹の混在した庭は、季節毎に多様な色彩の変化が訪れる。
旧相馬邸
洋室は相馬哲平の多額の寄附により竣工する旧函館区公会堂(重要文化財)に退けを取らないデザインを見ることができます。定規柱と窓額縁、さらには軒下の持ち送りに至るまで濃密な彫刻が施されています。さらに軒天井は神戸や長崎の異人館でもよく見られる菱組の簀の子天井となっています。
旧相馬邸 蔵
函館市の顔・世界に向かって羽ばたかんとする伝建地区の佇まい(函館市元町末広町)
北の海の玄関口の一つである函館は、幕末期から開港場として発展しました。函館山の麓には、異国情緒が漂う町並が広がり、その中心部分が保存地区となっています。
重要文化財の旧函館区公会堂(明治43年)や函館ハリストス正教会復活聖堂(大正5年)が高台に聳え、港沿いには煉瓦造の倉庫群がひろがり、その間に和洋折衷の独特な形態を持った住宅が点在して残り、和洋折衷の函館市ならではという独特の雰囲気を醸し出しています。
函館市の顔・世界に向かって羽ばたかんとする伝建地区の佇まい(函館市元町末広町)
函館市の顔・世界に向かって羽ばたかんとする伝建地区の佇まい(函館市元町末広町)
日本最初の、西洋式【函館公園】開かる!
明治12年(1879)に開設された函館公園は、眼下に津軽海峡を望む函館山の南東麓の景勝地に位置する。公園の開設に当たっては、函館駐在英国領事のユースデンの提言に基づき、地元の商人である渡辺熊四郎などが多くの人々から寄付金を集め、自らの資財をも投げ打って尽力した。
函館公園開設に関する
特質の第1は、工事監督に当たった浅田清次郎をはじめ多くの市民が、寄付金集め、草花の栽培・手入れ、土運びなどの勤労奉仕を行い、活発な住民参加の下に開設の準備作業を進めたことです。
特質の第2は、開設に合わせて園内に開拓使函館仮博物場(旧函館博物館1号)が竣工したのをはじめ、明治17年(1884)には函館県博物場第二博物場(旧函館博物館2号)、昭和3年(1928)には市立函館図書館がそれぞれ開館するなど、公園が文化施設としての役割を果たしたことです。
さらに特質の第3は、昭和13年(1938)に園内に北海道で最初の公共動物飼育施設が設置され、昭和31年(1956)に遊戯施設である「こどものくに」が開設されるなど、開設当初の地形・地割を残しつつ、時間の経過とともに多くの文化・教育・行楽の施設が造園空間との融合の下に付加されていったことです。
現在においても、東半部の円形広場をはじめ、中央の石組の流れ及び石造橋(白川橋)、随所に見られる石燈籠などに、当時の地形・地割・地物などをうかがうことができます。
以上のように、函館公園が持つ公園史上の意義は深く、現在もなお当時の地形・地割をよく残し、風致に富んだ優秀な景趣は造園文化の発展に十分寄与していると考えられます。
編集後記
ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に、最高評価の三つ星が与えられるなど、函館山展望台からの眺望は国を超えた景観美としての普遍性があるのですね〜!
また、改めて感動するのは、 大東京のど真ん中、日比谷公園の開設が1903(明治36)年6月1日の仮開園式から数えて、今年で115周年らしいのですが、此処の函館公園ときたら、何とそれよりいち早く、1879年(明治12)年に開設24年間も先行しているんですよ。
小生が思うに、当時、特に庭園文化の美意識を尊ぶ祖国英国から派遣された駐在英国領事のユースデン氏の提言と、それに呼応する素地を持ち合せた地元豪商の渡辺熊四郎氏がいて、その他、目の超えた多くの領事館関係者や貿易商人の熱望と力強い応援の後押しが有ったればこそ、実現したに違いない!と自分勝手に想像逞しくしているのですが…(賛否両論お待ちしていま〜す!)
山烏の鳴き声とともに、夜が明け、予想を覆し天空はいきなり白み初めていよいよ朝日が昇ってきましたよ。確か、予報では名古屋地域は雨との事でしたが…本日は天も味方したのか朝日は拝めないものと高を括っていたら、定刻通り朝日のお出ましです。♫ この続きは明日の「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その2」でご紹介致しましょう。
ああ〜疲れた〜!
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
旧相馬邸 函館市元町33-2 電話番号 0138-26-1560
函館山ロープウェイ㈱ 〒040-0054 北海道函館市元町19-7 0138-23-3105(総合案内)
函館市役所 〒040-8666 北海道函館市東雲町4番13号 TEL:0138-21-3111(代)
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