このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
子供たちの地下足袋が新鮮に映る…
江差の宝たち「大きくなって、きっと帰って来いよ!」
菱田昭彦さん 中歌町蛭子山保存会会長 三度の飯より祭好き!和太鼓の腕もピカイチだ。
江差は北海道文化発祥の地
江差の歴史は古く、藤原一族が本州から上陸したとされる1189年が起源ともいわれています。江戸時代には にしん漁と北前船による海上交易で栄え、食料品や衣料品、調度品や嗜好品、さらに文化や人や技術など、あらゆるものが海を渡って江差にやってきました。
江差はそのむかし北海道を代表する港まちだったのです。明治初期以降、北前船がもたらした繁栄の時代は幕を下ろしましたが、江差にはその当時の風情を今に伝える貴重な建造物や江差追分、姥神大神宮渡御祭など、有形無形関わらず多くの文化遺産が息づいています。
姥神大神宮のお祭り
姥神大神宮の祭りは、光格天皇から正一位の位をいただいた日にちなんで毎年5・6日に行われていますが、華麗な山車(ヤマ)行列は8月9日から3日間行われます。こうして姥神大神宮の祭りの幟は2度立ちます。一般には山車が巡行する渡御祭が、お祭りとなっています。
山車は神輿のお供をする形で、初日に下町を、2日目に繁華街を中心とした上町の路地をくまなく回って巡行します。町内に現存するもっとも古い山車と水引幕は、神功山(じんぐうやま)のもので、宝暦年間(1751年~1764年)京都の人形問屋が納めたもの。北海道の指定文化財になっています。
これに限らず13台ある山車はそれぞれ由緒があり、地区の宝物となっています。中でも松寳丸という山車は豪華さでひときわ目を引き、弘化2年(1845年)、近江屋利兵衛という人が大坂の船大工に頼んで大金を投じてつくったもの。船体は楠の弁財船です。しかし、長年の使用で痛みがひどくなり、近年、地元保存会が1500万円の費用をかけて修復しました。戸数もわずかな町内会が、このような費用を捻出するところにも、祭りに寄せる江差の人々の心が感じられます。
松寳丸
姥神神社祭典に供奉するために建造された全長7メートル、船幅最大2.9メートルの山車で、和船型朱塗り金色金具付きの御座船で、三階松の帆を上げるようになっています。船体に弘化2年(1845)の銘がありますが、破損が激しかったことから昭和51年(1976)に全面解体修理を行いました。
船体は楠で作られ、朱色の漆を塗り、松前家の紋や金具で飾られています。帆には、松前藩の船と同様の松の模様が染め抜かれています。(暖地(九州地方)の木の意味を持つ「楠」は和字で、樟は中国名です。)
船名の和名は、松前藩主第16代昌廣によってなされたと伝えられており、当時の江差の繁栄を伝える貴重な資料です。
※日本書紀によると木の適材適所は 素戔嗚尊(須佐之男命)が宣われたとあり、船材は杉か楠で造りなさいとあります。
山車がお供をする神輿は3基。その中で最も古いものは元禄7年(1694年)に大坂で制作されたことがわかっています。不純な心で神輿を担ぐと不吉なことがあるとされ、神輿に不調があったときには、海難や火事などの事例が起こったといいます。
歴史の浅い北海道にあって、日本を代表する神事として誇れる数少ない祭りです。
祭りの起源
このお祭りは今からおよそ370年前、江差の人々がニシンの大漁を神に報告し感謝したのが始まりで、江差町内で現存している一番古い山車の人形と水引幕は神功山(じんぐうやま)のもので、宝暦年間(1754~1762)京都の人形問屋が納めたもの。
神功山の人形を基に逆算すると約250年前となりますが、祭りの起源とは直接結びつくものではありません。こうした贅を尽くした逸品を所持するまでには、それまでにも相当の年月を重ねていただろうと想像できます。
神功山は姥神神社祭典に供奉される山車で、人形は宝暦4年(1745)に作られました。箱書きに、細工師の名前が書かれており、京都の人形問屋松屋七郎兵衛に納められたと伝えられています。
御首の容貌に対する評価は高く、当時の職人技術の高さを反映しており、現在に至っても、その様子は変わることなく残されています。
人形と同時に、付帯する衣装等も同時に保存されており、祭典に欠かせない貴重な存在となっています。
山車の紹介
山車(ヤマ)
渡御祭は12台の御所車ふうの台車に、二層、三層の桟敷を設けた山車と、1台だけ船の形をした『松寳丸』の計13台の山車で町中を練り歩く。いずれも車台は赤朱と黒の漆塗りに、飾り金具がびっしり打たれている。遠目にも近くから見ても、豪華で頑強な作りである。
普通、山車は50年で改築が必要とされており、その際は1千万円を超える経費を要する。これらの経費は僅か百戸足らずの各町内会で賄うこととなるが、これはけっして経済的な余力が生むものではない。自分たちの山車が一番という誇りがそれぞれの町内の結集を生み、また祖先が残した遺産に対する江差人の思いがそこにある。
13の山車を支える17の町
北海道最古の歴史と伝統を有する「姥神大神宮渡御祭」に供奉する山車は、我が町内の貴重な文化遺産として、山車保存会によって、祭り囃子の伝承と共に大切に保存されてきました。
「江差の五月は江戸にもない」と云われた往時の北海道文化財、神功山、松寳丸や由緒ある人形、装飾品で飾られた絢爛豪華な13台の山車を紹介します。
松寳丸(まつほうまる)(海岸町・陣屋町)
山車紋「丸に武田菱」 松前藩の家紋
「松寳丸」の由来
松寶丸は毎年姥神大神宮渡御祭に供俸するため、建造されたもので船体胴内に
注文人 近江屋利兵衛 竹蔵 大阪前堂作
船体胴内裏書
船棟梁 太秦屋(うずまきや)徳八郎
鏡屋 茂兵衛
塗師 佐兵衛 弘化二年乙巳三月良辰
との裏書があり弘化2年(1845年)大阪で建造された弁財型和船造りのご座船で主材は楠(樟)の木を使用し帆は松前藩船と同様な三階松が染め抜かれている。
船名は松前藩主十二代昌広が命名したものであり、水引幕は屋形の正面に二見が浦、左右に比良の暮雪と唐崎の松を刺しゅうした往時の経済力の高さを物語る代表的なもので十数の山車と共に人波にゆられながら数百の軒灯をわけ朱塗りの金色さんせんと輝き市中をくねる本格は優に殷賑を極めた昔の江差を回想させます。
水引
水引幕は屋形の正面に『二見が浦』、左右に『比良の暮雪』と『唐崎の松』が刺繍されたもの。
山車船体
姥神神社祭礼山車「松寶丸」
昭和38年12月14日 北海道有形民俗文化財に指定される。
新栄山(しんえいざん)(新栄町)
山車紋「武田菱」
人形は、武田家総領の名将、武田信玄
「新栄山」の由来
武田信玄 甲斐(山梨)の守護。信虎の子で晴信といった。 戦国時代、上杉謙信と川中島で前後11年間も戦ったが勝敗がつかなかった。軍略では当時第一の名将であったばかりか、信玄家法(甲州法度)を定めたり、信玄堤を築いて治水をしたり、鉱山の開発をするなど、民政にも優れた業績を残した。 「風林火山」「諏方法性」の軍旗に無敵といわれる。
京都から購入した新田義貞(南北朝時代の武将)を飾っていたが、昭和30年、江差町の人形師・西谷海 厳(号・北龍)作の「武田信玄」像に改められた。山車を曳く子供たちや若い衆の半纏にも「菱(ひし)つなぎ」の裾模様、白い半纏の背には「武田菱」(割り菱)の四ツ割りのヒシ形の紋が描かれている。
人形は、甲斐源氏、武田家総領の名将、武田信玄、越後の上杉謙信との川中島の戦いは有名で、治国民政にも優れた偉業があります。
孫子の兵法に優れ「風林火山」の軍旗を飾り付け巡行しております。
水引き
新榮山 昭和24年
神功山(じんぐうやま)(愛宕町)
山車紋「抱き菊の葉に菊」
人形は、仲哀天皇の后妃、神功皇后
「神功山」の由来
神功皇后が三韓遠征のみぎり、九州は肥前の国玉島川において鮎を釣って勝敗を占われた伝説をかたどったもので、昔から安産の守護神として篤い信仰をうけています。
宝暦4年(1754年)姥神大神宮祭典に初めて市中を巡行したと伝えられています。
姥神神社祭礼山車「神功山」人形及び付属品 昭和38年12月24日 北海道文化財(有形民俗文化財)に指定される。
水引き
智仁勇の図綿の御旗は「伝蜀江綿」で非常に稀品といわれ、水引きは朱の古渡りラシヤに中国の史書に散見することができる。
図柄は寒山・拾得・麒麟・張良・黄石公の刺繍で智仁勇を顕しています。
製作年 宝暦11年(1761年) 製作場所及び作者名 京都製 昭和58年 京都宇佐美国宝修理所で修復
豊栄山(ほうえいざん)(豊川町)
山車紋「丸に武田菱」
人形は天照大神の孫にあたる、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
「豊栄山」の由来
古事記によると天照大御神の天孫、ニニギノミコトは、天照大御神と高木神の命によって瑞穂の国の統治者として高天原から降臨した大君の祖先神である。
ニニギの意は「稲穂のにぎにぎしく実る」をとったといわれ、収穫祭の原義を神話時に語っている。
天照大御神より三種の神器(鏡・環・剣)を受継いだ姿を表わしている。
山車屋台
総漆塗り。町民から寄贈されたケヤキの大丸太6本を使い、屋形は総ヒノキ造り、町内13台の山車のうち唯一の3段高欄はホウノキ材。飾り金具は銅板の金メッキ。
神座正面に鳳凰と龍の金銅彫刻を飾っている。製作工期/昭和63年7月製作
水引
水引は人形にちなみニニギノミコトを祀る社、九州の霧島神宮宮司占部眞一書による智・仁・勇の文字を表わしている。
智明以治(鏡)明なるを以って治むるは智なり(正直)
仁寛以教(環)寛かれるを以って教ふるは仁なり(慈悲)
勇剛以行(剣)剛きを以って行なふは勇なり(決断)
蛭子山(えびすやま)(中歌町)
山車紋「三つの蔓柏」
人形は、蛭子様(えびすさま)
「蛭子山」の由来
人形は蛭子様、風折烏帽子をかぶり、鯛と釣り竿を担ぐ神像で、生業を守護し、福徳をもたらす福神として祀られています。
緑色の狩衣の両袖を左右にぴんと張って、左脇に赤い大鯛を抱き、右手にしなやかな細い釣り竿をもっている。胸に大きく「蔓柏」紋が縫い取りしてある。
水引
「猩々緋水引」(しょうじょうひみずひき) 天明元年、旧九艘川在住の豪商 岸田三右衛門が京都の呉服織物問屋、糸屋忠蔵に誂えて製作したものである。図柄「布袋・龍虎梅竹」は京絵師、法橋素隠先哲の筆となり、縷師富森秘伝の刺繍技法で修められた。
布地は、緋羅紗地(ひらしゃじ)のペルシャ産、金糸は純金で、龍、虎、布袋の眼球はギヤマンを使用している。
元来、水引は旧九艘川町神鏡山の所蔵であったが、昭和12年町区域改正により中歌町「蛭子山」が継承、昭和55年、京都宇佐美国宝修理所で修復完成する。 旧蛭子山の水引「日本三景之図」は姥神町「豊年山」へ引継。
豊年山(ほうねんやま)(姥神町)
山車紋「変り抱き稲」人形は、神武天皇像
「豊年山」の由来
「江戸にもない江差の五月」とニシン漁で全国に名を馭せたる 当地江差において豪商が軒を連ねた中心市街地である 当姥神町民及び関係者により誇りを持って保存伝承されている。
人形
人形/神武天皇像
神日本磐余彦尊は、はるばる瀬戸内海を渡り河内から大和へ進撃するが、兄五瀬命は戦傷で薨去、八咫鳥の先導で吉野に入り、大和を平定橿原の宮に即位する。宿敵長髄彦との戦いで天候が急変し、金鵄が来りて天皇の弓に止まり、天神の威光に賊軍は目眩みて潰滅したと東征神話にある。
昭和55年人形司 12世伊東久重の作で、伊東司は享保年間京都四条高倉で桝谷庄五郎名で人形づくりを家業とするが、後桜町天皇より「有職御人形司伊東久重」の名を賜り代々継承する。
後に光格天皇より「入魂の作に押す」拾六菊花紋印を賜る。
製作年/昭和55年(1980年)製作場所及び作者名/
京都市 人形司 伊東久重 作
水引
「唐子春秋之図」豪華な金糸の刺繍が見事である。
江戸後期、京絵師山田芳洲筆、雅号索隠子先哲の画法を修めて能くし「法橋」に叙せられると扶桑画入傳にある。
「日本三景之図」陸前松島、丹後天の橋立、安芸の宮島 有名な日本三景の図柄をあざやかに描きだしている。明治45年蛭子山で製作。字地番改正で昭和12年旧中歌町代表横山宗右衛門が引継ぎ豊年山の水引きとなる。昭和55年宇佐美直八氏が修復完成。
姥神神社祭礼山車「豊年山」水引(唐子春秋之図)(日本三景之図) 平成12年4月19日 江差町有形民俗文化財に指定。
楠公山(津花町)(なんこうやま)
山車紋「 菊 水 」
人形は、南朝の勇将「楠木正成」
「楠公山」の由来
大阪河内の土豪から後醍醐天皇の信頼を得て摂津、湊川の戦いで壮絶な最期を遂げたと伝えられれおります。 正成の軍旗「非理法権天」の幟を飾り巡行しております。
江差追分節にその名を詠われた津花町は 元治年間は神船(七福神)とあります。楠公山となったのは明治7年と記されております。
人形
南北朝の英雄 楠木正成(大楠公)湊川出陣の像。
明治初期以前の作と言われ一説には弘前で製作されたと言われております。
御首の修理は昭和7年〔竹林堂〕昭和24年〔初代 西海谷北龍〕平成14年(二代目 西海谷北龍)に依り維持されております。
水引
日本水彩画だんにその名を残した 早川国彦氏(岐阜県出身)筆によるもので大正中期に製作されたものです。
義公山(ぎこうざん)(南浜町・柏町・南が丘)
山車紋「水戸徳川葵」
人形は、徳川御三家、水戸藩主 徳川光圀
「義公山」の由来
旧五勝手村は山車人形を所蔵するが山車は借用し、姥神大神宮渡御祭に巡行しておりましたが、大正13年中川民蔵、佐藤小三郎氏等が世話人となり山車を製作する。
代々、乃木山・乃木将軍で継承するが昭和24年(1949年)義公山、水戸黄門となる。
人形、水戸黄門は義公山の興隆に岩井勝三郎氏が寄進したものである。
水戸光圀は、第二代水戸藩主で義公という称号を持つ。義公は明暦3年大日本史編纂に着手し、多くの学者を各地に派遣して資料を収集した。
水戸黄門漫遊記で有名な佐々木介三郎(助さん)、安積覚(格さん)はいずれも大学者で特に介三郎は、義公の命を受けて全国に行脚したといわれている。
昭和23年まで乃木将軍(乃木山)でしたが、その後現在の黄門さんで「助さん・格さん」を従えた諸国漫遊の旅姿となっています。
町内の子供が「助さん・格さん」の姿で介添えしているのが特徴です。
光圀は「梅里」と号し、おくり名を「義公」、大日本史を編纂した。
人形/水戸藩主、徳川光圀像
水引
水戸景色、梅、城の図柄を配する。
譽山(ほまれやま)(茂尻町)
山車紋「右二つ巴」
人形は、赤穂藩5万3千石の城代家老「大石内蔵助」
「譽山」の由来
「浅野長矩」が江戸城中で刃傷におよび改易、切腹。亡君の遺恨ありと、大石以下46名の浅野家遺臣が江戸本所の吉良邸に討ち入り、吉良上野介を斬首し、高輪、泉岳寺の墓前に献じたと伝えられております。
山車人形/大石内蔵助良雄像
日本人の心の基盤をなす武士道を中心とし忠臣蔵として誉れ高い赤穂浪士の討ち入りを表現したものです。
山車屋台
昭和6年に大工棟梁・梅沢吉五郎が作ったものが使われていたが、昭和61年に55年ぶりに作り直された。車台は江差産のヒバ(ヒノキアスナロ)を用い、高欄にはホオノキ木が使われ、屋形の4本の丸柱と全面の角材は、以前の山車の材料を生かして伝統を守った。
聖武山(しょうむざん)(橋本町)
山車紋「唐獅子牡丹」
人形は、景行天皇の皇子「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」(倭建命)
「聖武山」の由来
山車人形は、明治22年(1889年)大阪心斎橋大江良介の製作による。景行天皇の皇子で記紀に見える最も偉大な英雄である。勇武を恐れた父帝(みかど)が、彼を南九州の熊曽によってタケルという名を献上された。
なお、出雲建をはじめ幾多の土豪と戦い都に還るが帝はすぐまた東国征伐に遣わす。彼は伊勢に行き叔母の倭比売(ひめ)は、あめのむらくもの剣(後のくさなぎの剣~三種の神器の一つ)と火打ち石の袋を授ける。東国の遠征の途上、相模で国遣(くにのみやつこ)らにだまされて野火の難に遭うが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石によって助かる。
このときの野火との戦いの雄姿をかたちどったのが、この山車の人形である。聖なる武勇と言うことから聖武山と名づけられた。
江差町内の山車人形の中でも数少ない動作人形の一つでもあります。
山車人形/日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
源氏山(げんじやま)(上野町)
山車紋「笹龍胆」
人形は、源氏の武将「源義経」の郎等、「武蔵坊弁慶」
「源氏山」の由来
弁慶は平安朝後期、熊野別当の子として生まれたとされ、幼名を鬼若、比叡山延暦寺の西塔に住し武蔵坊と号す。書写山円教寺をはじめ西国諸所にて修行を重ねた後、清和源氏の御曹司源義経に従い平氏追討を果たす。主君義経が実兄である武家の棟梁源頼朝の不興を破り追捕されるも、弁慶が機智により数々の苦難を退け、無事に奥州の豪族藤原秀衡のもとへと落ち延びる。しかし、秀衡の死後、その子泰衡が頼朝と結び義経を急襲、弁慶は敵兵の矢刃を一身に受け、世に云う弁慶の立ち往生にて、義経自刃の時を稼ぎ、最期までその忠義を貫いた。
人形は、歌舞伎十八番「勧進帳」でおなじみの雄姿であり、町内の山車人形としては最大を誇る。
人形/武蔵坊 弁慶
水引き
「橋弁慶の図」「船弁慶の図」「勧進帳の図」
清正山(せいしょうざん)(本町)
山車紋「蛇の目、桔梗」
人形は、肥後熊本藩主54万石、「加藤清正」
「清正山」の由来
人形は加藤清正公である。武勇の神・建築の神(熊本城他日本の名城を築く)農業・商業・振興の神。更に大の法華経信者で守護開運の神とも称されている。本町法華寺本堂には清正公の像を奉祀してあり、山車名を清正山、人形清正公としたのは本町振興発展の意味をこめている。
人形/加藤 清正
水引き
水引き 「虎」図等
山車屋台
山車は昭和54年8月 山車建造実行委員会によって再建造したものです。棟梁は、山本道雄氏 水引 京都市 (株)川島織物 彫刻金具 漆師 名古屋 (株)善光堂で製作したものであります。
政宗山(まさむねやま)(新地町・円山・緑丘)
山車紋「仙台笹、九曜」
人形は、仙台藩主62万石伊達政宗像
「政宗山」の由来
永禄10年8月3日生まれで 幼名は母 義姫が出羽三山の湯殿山に祈願して夢のお告げで生まれたので梵天丸と名付けられた。18歳で家督を継ぎ 伊達家17代当主となる。 幾度かの危機を乗り越え 奥州を平定 朝鮮出兵では 秀吉から割り当てられた倍の三千人を率いて出兵。後年(伊達者)・(伊達男)の言葉を生むきっかけとなった華麗な軍服で京を行進した。
また 独眼龍の異名を持つ特異な武将であり 官職は従三位 権中納言。 政宗の家紋は 九曜であるが 戦の時には 先代の仙台笹の家紋を使用していたと伝えられている。
趣味は 和歌・能楽など多彩。寛永17年5月24日 江戸で波乱に満ちた生涯を閉じる。
人形/伊達 政宗
祭囃子
神の依代として飾り付けられたヤマは、神輿に供奉し、各ヤマ固有の笛・太鼓で奏する囃子のリズムと「ヨーイ・ヨーイ」曵子の掛け声にのって巡行します。
江差の祭り囃子は各ヤマが保存伝承しているオリジナルな囃子で「行き山・立て山・帰り山(戻り山とも云う)」の三種の別があります。
「行き山」は巡行中の囃子で流暢なリズム。「立て山」は御旅所や立て場(神社)で、神に捧げる囃子で荘厳なリズム。
「帰り山」は烈しい急テンポの囃子で、行列が解散して宿に帰る時の囃子です。
囃子の類型
各ヤマの囃子はオリジナルであるとは云うが、それは細部についてであって、全体としては調子が同一で、僅かなリズムの変化・撥捌きに多少の変化が見られる程度で、囃子の雰囲気としては統一されています。こうした囃子の成立には幾つかの類型が考えられます。それは比較的古い伝統を持つ神功山・蛭子山と、豊年山・楠公山、松寶丸の三つの型がその基底にあるようです。それも確固たるものではない。
ヤマの笛や太鼓の奏者になることは名誉なことで、懸命に練習研鑽してその能力が一人前と、古参に認められて初めてヤマに乗ることが出来る。それは男子だけの特権であったが、昨今の過疎化、加えて男女同権意識、伝統への憧れ等からか、むしろ女子の奏者が多くなった。
「江差町」まだまだご紹介したい事は沢山ありますが、一先ずこれにて・・・
なんとか、最終話を姥神大神宮渡御祭の開催日の前にご紹介することができました。
皆様のご来場をお待ちしています・・・
小生はこの後、新潟へ飛び、生まれ故郷の岐阜県大垣(芭蕉・奥の細道結びの地)を経由して兵庫県尼崎市※のご紹介することになります。 ※尼崎市と大垣は、関ヶ原の合戦以来、大変にご縁の深いお付き合いです。
この度の、「姥神大神宮渡御祭」の掲載にあたり、
江差町役場 照井 誉之介町長はじめ、 追分観光課 観光係
地域おこし協力隊の皆様のご協力に感謝申し上げます。
協力(順不同・敬称略)
江差町役場 〒043-8560 北海道檜山郡江差町字中歌町193-1TEL:0139-52-6716
江差観光コンベンション協会 〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町193-1
TEL(0139)52-4815
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
〜鳥の囀りに〜
ああ…夜が明けてしまいました。近所の山烏が里に下りてきて囀り始めました。そう言えば、コケコッコーは久しく聞いたことがない。あれは故郷記憶だったのか〜
闇を割く 雄鶏一声 ガキの夢
全国的に雀の数が減っていると聞くけれど、少々田舎の拙宅付近は何故か数は減らず姦しくもホッとする。ヒヨドリはピラカンサスの赤い実が無くなり椿の花が落ちると、いつしかいなくなる。
最近、黒猫が茶トラとの戦いに勝ち縄張りを確保したのか、朝の5時には出勤してモーニングだけ食べるとさっさと姿を消し、正午と17時になると不思議と時間通りにやってきて車の下で待っている。一年以上の付き合いなのに体に触れようとすると恩義も忘れて「シャー」と威嚇する。
そうそう、イタチとかアライグマもやってくるらしい。毎朝、水を入れた容器がドロドロになっている。鳥や動物たちもこのところの暑さと雨の繰り返しで食べるものに困っているのかな〜
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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