このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
『魏志倭人伝』一支国の王都 壱岐「原の辻遺跡」
対馬藩主・宗家菩提寺 対馬「万松院」
遣唐使船日本最後の寄泊の地。「肥前風土記」にも記載 五島「魚津ヶ崎(ぎょうがさき)公園」
【壱岐/対馬/五島 日本遺産認定】
日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代より、これらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点でした。
特に、朝鮮半島との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で一支国として栄え、対馬は中世以降、朝鮮王朝との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄 えた歴史が残っています。
経済や交通の発展により、中継地としての役割は希薄になりましたが、古代の史跡や城址、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等においても 日韓交流の痕跡が窺えます。
国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域であることから日本遺産に認定されました。
【日本遺産とは何?】
地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化・伝統を語るストーリーを国が日本遺産として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な文化財群を国内外に発信することにより、地域の活性化を図るものです。
本コンテンツでは、壱岐の構成ストーリー要素10点をご紹介いたします。
(全体では、対馬・壱岐・五島列島の27の文化財で構成されています)
国境の島のものがたり
日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点であった。特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えた。その後、中継地の役割は希薄になったが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺えます。国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域であります。
ものがたりの詳細
大小6852の島から成る島国・日本。日本の西端に位置する長崎県には、日本最多の971の島があります。
朝鮮半島との間に飛び石のように浮かぶ壱岐と対馬、東シナ海上に鎖状に連なる五島は、古代より日本と大陸を結ぶ「海の道」の要衝であり、地理的に大陸や朝鮮半島に近いことから、融和と衝突の最前線にありました。
魏志倭人伝に記された国境の島
日本がまだ「倭」とよばれていた時代、魏(中国)の使者は、朝鮮半島を南下し、対馬や壱岐を経由して、倭の女王がいる邪馬台国を目指しました。中国の歴史書『三国志』の中の「魏志」倭人伝(*1)には、対馬国(現在の対馬市)と一支国(いきこく)(現在の壱岐市)の様子が次のように記されています。
対馬「烏帽子岳」からの眺め。伊勢志摩に匹敵するリアス式海岸が素晴らしい!
狗邪韓国からはじめて海を渡ると対馬国に着く。山は険しく、深い林が広がり、道も獣道のようだ。良い田がほとんどなく、海産物を食べて生活し、南や北へ行き、交易をしている。
対馬国を出て、また南に海を渡ると一支国に着く。海の名は瀚海という。林が多く、少し田はあるが、田を耕しても、食料が足りないので、やはり南や北へ行き、交易している。
(「魏志」倭人伝(現代語訳)より抜粋)
対馬は、韓国の釜山までわずか49.5kmの距離にあります。切り立った山々と高さ100mに及ぶ断崖絶壁が見られます。島の89%が山林で、白嶽や龍良山には、国の天然記念物に指定されている原始林が残り、「魏志」倭人伝に記された対馬の姿と重なります。
このように、平地が少なく、耕地に乏しい地理的条件から、対馬では古代より船で南(日本列島)と北(朝鮮半島)を行き来し、人・物・文化の交流が行われていました。
*1.「魏書」第30巻東夷伝・倭人条の通称
海の道に浮かぶ国際交流の都
壱岐は、対馬とは対照的に山地が少ない平らな島です。島内最長の幡鉾川の流域に広がる平野・深江田原には、弥生時代、一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」がありました。
日本と朝鮮半島を行き来する古代船は、壱岐島の東部にある内海湾(うちめわん)に停泊し、人や物を小舟に移して、幡鉾川を1.5kmほどさかのぼったところにある船着場を目指しました。
原の辻遺跡から発見された船着場跡は、大陸の高度な土木技術を取り入れて造られた王都の玄関口にふさわしい立派なもので、日本最古の船着場跡とされています。
倭の国々の中でも、いち早く海外の情報を入手できる原の辻は、海上交易で王都を築いた国際交流都市の先駆けで、日本人だけでなく、朝鮮半島から移り住んだ人もいて、活気に満ちあふれていました。
原の辻遺跡からは、朝鮮半島で作られた土器、中国の貨幣、人の顔をした人面石など国内外の多様な遺物が出土しています。なかでも、きらきらと青色に輝く中国製トンボ玉は、女性や子どもたちの心を捉えたことでしょう。
壱岐「原の辻」一支国王都復元公園
復元された建物と周囲に広がる田園風景は、弥生時代にタイムスリップしたかのようです。
真夏の焼けるような日差しの中での発掘作業が花開きました。
巨石古墳が物語る国境の島
6世紀後半以降、倭国と新羅・高句麗など朝鮮半島の国々との関係が悪化する中、壱岐では古墳が盛んに造られました。双六(そうろく)古墳、笹塚古墳など壱岐の有力者のものとされる巨石で築かれた古墳の石室(*1)内からは、中国大陸や朝鮮半島との交渉を物語る多くの遺物が発見されています。特に北斉製の二彩陶器や緑釉(*2)を施した新羅土器などは、当時の倭国社会でも限られた有力者しか持つことができなかったとても貴重なものです。
壱岐「笹塚古墳」
壱岐の巨石古墳に葬られた者には、朝鮮半島との関係を重視して、ヤマト政権から派遣された有力者もいたと考えられています。つまり、当時の壱岐は、朝鮮半島との関係において、重要な役割を果たしていました。
ひんやりと涼しい石室の中に身を置くと、巨石古墳に眠っていた人物の権勢が静かに伝わってきます。
*1. 死者を納める部屋
*2. 陶磁器の表面を覆う緑色の釉薬(ゆうやく、うわぐすり)
防人の思いに触れる国境の島
朝鮮半島では、唐(中国)が新羅と結んで、百済を滅ぼしたため、663年、倭国は百済の復興を支援するために大軍を送りましたが、唐と新羅の連合軍に大敗(白村江の戦い)。倭国は唐・新羅の侵攻に備えるため、壱岐や対馬に防人(*1)と烽火(*2)を置き、対馬には亡命百済人の技術による朝鮮式山城・金田城を築きました。
防人は主に東国(*3)から派遣され、自給自足の生活をしながら、防備にあたりましたが、3年の任期を終えても故郷に帰れない者がいました。防人たちの故郷や家族への思いは、日本最古の和歌集『万葉集』に防人の歌として収められています。
対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも (対馬の峰には山裾にかかる雲がない。神の峰にたなびく雲を見ながらあなたを深く思っていよう。)
金田城跡に立ち、国境の海を見下ろすと、故郷への思いを募らせた防人の姿が偲ばれます。
*1. 古代、北部九州の要地の防衛にあたった兵士
*2. 外敵の侵入などを知らせるための煙やのろしをあげる設備
*3. 現在の中部・関東地方
遣唐使旅立ちの国境の島
日本は、630年から838年にかけて、朝鮮など東アジアの情報を収集し、唐の進んだ制度や文化などを学ぶため、4隻の船に分乗した数百人の使節団(遣唐使)を派遣しました。遣唐使船は当初、壱岐・対馬を通り、朝鮮半島を経て中国大陸に渡っていましたが、663年の白村江の戦い後、新羅との外交関係が悪化すると、五島から東シナ海を横断し、中国大陸に入る危険な航路をとるようになりました。
当時の船の構造、航海技術では、無事に帰国することは難しく、遣唐使たちは日本で最後の寄港地であった五島で航海安全を祈り、決死の覚悟で旅立ちました。
最澄と空海は、804年の遣唐使船に乗って五島から唐へと渡り、最新の仏教の教えを学んで帰国しました。その後最澄が天台宗を、空海が真言宗を開いたことは有名で、対馬・五島には、彼らに関する伝説が残っています。
五島「辞本涯」
遣唐使たちが最後に見た日本の風景・五島。目の前に広がる東シナ海を眺めていると、空海が残した「辞本涯(じぼんがい)(*1)」 という言葉が心に響きます。
*1. 日本の最果てを去るという意味。
五島「西高野山」大寶寺ご本堂 大同元年(806)空海が唐から帰国の際に立ち寄り、真言宗最初の道場として布教活動をしたことから、三論宗を真言宗に改宗しました。その後、西高野山とも呼ばれています。
ご本堂正面の欄間は、金沢・兼六園にある国重要文化財の加賀百二十万石前田家「成巽閣」の欄間に引けを取らない見事なものです。お見逃しなく!
日朝交流を支えた対馬藩と朝鮮通信使
対馬は、古代から、地理的に近い朝鮮と交易をして生活しており、室町時代には、対馬島主・宗氏を中心とした朝鮮貿易が行われるようになりました。ところが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(*1)により、日本と朝鮮の国交は断絶。朝鮮との貿易に頼っていた対馬にとって、朝鮮との国交回復は死活問題でした。
対馬「朝鮮通信使」
秀吉の死後、初代対馬藩主の宗義智は、朝鮮へ使者を何度も送り、国書を偽造するなどの危険を冒しながら、両国の関係修復に奔走し、1607年、江戸時代最初の朝鮮通信使(*2)の来日に成功しました。以来、約200年の間に12回、朝鮮通信使の来日は続き、対馬藩が日本と朝鮮との外交実務を一手に担いました。
対馬「朝鮮通信使」毎年行われるパレード
隣国同士が200年以上も平和的関係にあったことは世界史的にも稀なことで、その根底には対馬藩に仕えた儒者・雨森芳洲の「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という精神がありました。その言葉は、今日の国際交流に通じるものがあります。
*1. 1592年(文禄元年)の文禄の役、1597年(慶長2年)の慶長の役
*2. 朝鮮国王の国書を日本の将軍まで届ける大人数の外交使節団。
日本遺産の島へのアクセス
三島は、長崎からも福岡からも行くことができ大変に便利な島です。お時間に余裕のある方は船で、少しの時間でも、できるだけ沢山現地で楽しみたいという方は飛行機で、ただし飛行機は、アッという間についてしまいます。小生は両方使って行きましたが、それぞれに良さがあります。(玄界灘は海が荒れる時期は少しだけ大変でした・・・)それでも到着した時の喜びは忘れられません。
みなさんも一度行くと必ずまた行きたくなると思いますので、今回は船、次回は飛行機、また途中の景色も違うので長崎から福岡からと色々変えてみて「日本の原風景」にどっぷりとつかってみてください!四季を通じて楽しむことができ、きっと日本人の誰もが懐かしい日本を感じることと思います・・・
協力(順不同・敬称略)
(一社)壱岐市観光連盟〒811-5133長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触683-2TEL.0920-47-3700
(一社)対馬観光物産協会
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま
TEL 0920-52-1566
(一社)五島市観光協会 〒853-0015 五島市東浜町2-3-1電話番号0959-72-2963
新上五島町観光物産協会長崎県南松浦郡新上五島町有川郷428-31TEL0959-42-0964
(一社)〒850-8570長崎県観光連盟長崎市尾上町3-1長崎県庁5階TEL095-826-9407
長崎県文化観光国際部観光振興課〒850-8570長崎市尾上町3-1長崎県庁5階
TEL.095-822-9690
大寶寺「西高野山」〒853-0413長崎県五島市玉之浦町大宝633 電話0959-87-2471
高野山真言宗 総本山金剛峯寺〒648-0294和歌山県伊都郡高野町高野山132
TEL : 0736-56-2011(代)
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
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