女人道から見た根本大堂
正門
金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐられる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。
右のほうを見ますと小さな入り口があります。このくぐり戸は一般の僧侶がもっぱら使用しています。昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけでした。一般参拝の方はあまり関係のない話ですが、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのです。
経蔵(きょうぞう)
門をくぐって左手に見えますのは経蔵で、延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように主殿(しゅでん)とは別に建てられました。
金剛峯寺(こんごうぶじ)
高野山真言宗の総本山。高野山全体の宗務が行われており、住職には高野山真言宗管長が就任するしきたりになっています。国内最大級の石庭「蟠龍庭[ばんりゅうてい」や狩野派の襖絵など見どころが多数あります。
拝観料:500円
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
蟠龍とは、天に昇らずに地上でとぐろを巻き、潜んでいる龍のこと。広さ2340平方メートルに及ぶ石庭に、雲海の中雌雄1対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。
仏教と密教について
仏教は、今から2500年ほど前にインドで釈尊仏陀(ガウタマ・シッダールタ)が悟りを開かれたことを出発点とした「釈尊仏陀の教え」であり、キリスト教やイスラム教と並んで世界三大宗教に数えられています。仏陀(Buddha)とは「目覚めた人」という意味であり、心の豊かさについて、どうやって心の悩みや苦しみをなくすか、どうやって完全な人格を作るかという方法を教えました。「仏教は人間学だ」と表現されている先生もいらっしゃいます。まさしく理にかなったお言葉と思います。当時の仏教は無神教(むしんきょう)といったほうがよく、神の崇拝や釈尊仏陀自身を仏として崇拝することを許しませんでした。
さて、仏教では戒律を遵守する、禅定する、智慧を獲得するという三項目を「三学」と呼び、ことさら「実践する、実行してみる」ことが重要とされました。初期の教学では三法印(四法印)や十二縁起、四諦八正道(したいはっしょうどう)が、大乗仏教時代になると波羅蜜(はらみつ)、仏性・如来蔵思想などが展開していきました。
インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(これを北伝仏教といいます)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来したとされています。またインドからセイロン(現スリランカ)を経由した仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへと伝わりました(これを南伝仏教といいます)。
このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。
弘法大師像(西高野山)
密教と真言宗について
真言宗は、弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする教団です。真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味していますが、この「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であると述べています。それに対して、世界や現象の表面にあらわれている意味を真実と理解している教えを「顕教(けんぎょう)」と呼んでいます。「顕教」とは、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の教え(二乗)と法相宗、三論宗さらに天台宗、華厳宗などの大乗仏教を指しています。
密教と顕教の違いは、いくつか指摘できますが、もっとも根本的な違いは、この隠された秘密の意味を知る修行のあり方(修法・しゅほう)にあります。真言密教の修法を三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地・さんまじ)のことです。特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。弘法大師は、このあり方を仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいます。弘法大師は、顕教にはこの入我我入とも言うべき瞑想が欠けていると述べています。もっとも、平安時代後期から鎌倉時代にかけて登場する新仏教については、真言密教の教学や修法の影響を受けていると考えられますので、一概に顕教には瞑想が欠けているとは言えません。 もう一つ顕教との違いをあげると、仏や菩薩についての理解があります。顕教の仏や菩薩などは、さとりを開いたり、さとりを求める「人」ですが、密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。密教の仏や菩薩たちを法身仏(ほっしんぶつ)と呼ぶのはそのためです。
弘法大師は、この法身仏つまり法界の真理そのものが、わたしたちに直接真理の智慧(ちえ)を説いているあり方を「法身説法(ほっしんせっぽう)」と述べています。この智慧の説法を聞く時空が三密加持(入我我入)の境地ということになります。その意味で、真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派と言えます。
檀信徒のお勤めと作法
日々のお勤めについて
“お勤め”というとお坊さんたちが何か難しいことを言っているような、何か仰々しい感じを受けますが、そんなに難しく考えることはありません。『仏前勤行次第』を開くとお坊さんたちがお唱えしていたことが記されており、その内容というのはすべて仏さまの「み教え」になります。
心得として
家のお仏壇の前に座って仏様に礼拝し、仏様、ご先祖様に対し素直な心をもって接し、感謝の心を持つようにしたいものです。そして、その心をもって実践いたしましょう。
日本各地の大師信仰
入定信仰(にゅうじょうしんこう)
921年、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう)を贈られました。この時、東寺長者の観賢(かんげん)はその報告のため高野山へ登りました。奥之院の廟窟を開いたところ、禅定に入ったままの弘法大師に出会い、その姿は普段と変わりなく生き生きとされていたと伝えられています。この伝説から弘法大師は、今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという入定信仰が生まれました。この入定信仰は、1027年に藤原道長(ふじわらみちなが)が高野山に登山してから急速に広がったとされています。その情景を「有りがたや、高野の山の岩蔭に大師はいまだ在(おわ)しますなる」と詠んだ歌が今も伝えられています。
なお、高野山では毎月21日に弘法大師の御廟へ参拝する「廟参日」として、報恩の法会・儀式はもちろんのこと、たくさんの方々が御廟前へお参りされます。
遍路巡拝と同行二人(どうぎょうににん)
四国各地の、弘法大師の旧蹟を尋ねて、遍路修行を行うことです。昔は、お寺に札所番号はなく、弘法大師ゆかりの史跡を巡り、木札や金のお札をお寺の建物に打ちつけて、お参りの証にしていたそうです。したがって現在でも、札所を巡ることを「打つ」と呼ばれる方もいます。近世になって、八十八ケ所の番号と札所が固定しました。全行程約1,450キロメートル、徳島県を発心の地、高知県を修行の地、愛媛県を菩提の地、香川県を涅槃(ねはん)の地として、四国を一周する遍路巡拝は、一人で巡拝するのであっても、弘法大師と共に心身をみがき、いつも弘法大師と共にあるという「同行二人」の精神が培われました。そのありさまは「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われています。
四国遍路のはじまりは、愛媛県荏原の郷に住む衛門三郎という人物であると伝えられています。衛門三郎は大変裕福な長者でしたが、非常に強欲非道な人物として有名でした。そこへ一人の薄汚れた修行僧が喜捨を乞いにやって来ました。誰であろう、その人はお大師さまでした。ところが、再三喜捨を乞いに訪れた弘法大師を、口汚くののしり、しまいにはお持ちになっていた鉄鉢(てっぱつ)を取り上げて、叩き割ってしまいました。それ以降、その修行僧はぷっつりと姿を見せなくなりました。しかし、しばらくたちますと衛門三郎の8人の子供たちが次々に不幸に襲われ、亡くなってしまいます。そして、「この前、喜捨を乞うた修行僧は四国を巡って修行している空海(くうかい)さまではないか」とのお話を耳にします。その時、衛門三郎は「自分自身が強欲非道で喜捨をしようとせず、さらには空海さまの鉄鉢を叩き割ってしまった。子供たちが不幸にあったのも、自分の犯した罪への天罰にちがいない」と悟ったのでした。そして、弘法大師にお会いしてお詫びをするため、財産を様々な人達へ喜捨し、自らは弘法大師の後を慕って、四国を巡拝したというのが始まりなのだそうです。
九度山町石道(くどやまちょういしみち)
慈尊院 (じそんいん)
弘仁7(816)年、弘法大師・空海が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として創建しました。空海の母は讃岐国から訪ねてこられましたが、当時高野山は女人禁制であったため、お山に参詣することができず、亡くなるまでこの地に滞在しました。子授け、安産祈願など女性にご利益のある寺院として有名です。
女人道
高野山町石道
古くから高野山へ向かう道は幾本もありました。それらの道は山に近付くにつれて合流し、七つの道に集約されていきました。これを高野(こうや)七口と呼んでいます。この七口のうち、九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道を「町石道(ちょういしみち)」といい、弘法大師が高野山を開創された折、木製の卒塔婆を建てて道標とした道とされています。また、慈尊院には弘法大師の御母公が住まわれ、御母公へ会うために月に9回はこの道を通って下山しておられたことから、慈尊院周辺地域の地名が「九度山」となったともいわれています。
時代が経つにつれ木製の塔婆の損壊は激しくなり、鎌倉時代に高野山遍照光院の第九阿闍梨、覚きょう僧正(かくきょうそうじょう)が再建を訴え、後嵯峨上皇や北条時宗(ときむね)などの権力者による援助を受けて、朽ちはてた木にかわって石造りの五輪塔婆形(ごりんとうばがた)の町石が一町(約109メートル)ごとに建てられるようになりました。この町石は根本大塔を起点として慈尊院まで180町石が建立されて胎蔵界曼荼羅の百八十尊を表し、更に大塔から奥之院まで36町石が建立されて金剛界曼荼羅三十七尊として両界曼荼羅の世界を象徴し、さらに36町ごとに里石(4本)も建てられ、約20年の歳月をかけて完成されたと伝わっています。また、各時代の天皇、上皇さまの御行幸をはじめ、多くの信者さまが一町ごとに合掌しながら登山され、信仰の道として親しまれました。
奥之院(おくのいん)
高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
大塔
弘法大師、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。弘法大師は、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
壇上伽藍
弘法大師の誕生と歴史
御誕生(ごたんじょう)
真魚(まお)は、宝亀五年(774年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)で誕生されました。讃岐の郡司の家系に生まれた父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は玉依御前(たまよりごぜん)といいます。 その家は信仰心の厚い家柄でした。ある日のこと、父と母が、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入られる」という夢を同時にみられ、真魚が生れたのでした。
この真魚が後の空海上人(くうかいしょうにん)、弘法大師です。
真言宗では、この誕生になった六月十五日を「青葉まつり」と称して、弘法大師の誕生をお祝いしています。
捨身誓願(しゃしんせいがん)
幼年期の真魚の遊びは、土で仏さまを作り、草や木を集めてお堂を作ったりして、仏さまを拝むことでした。七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんが だけ)に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困ってる人々をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえさせてください」と仏さまに祈り、谷 底めがけてとびおりました。すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、真魚をしっかりとうけとめました。
真魚は大変喜んで一層勉強にはげまれました。
都での御勉強(みやこでのごべんきょう)
み仏を拝むのが好きな真魚は、また勉強もよくできました。十四歳まで讃岐で勉強したが、十五歳の時、都(長岡)に出て、叔父さんの儒学者阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、十八歳で大学に入りました。
しかし、大学で習う儒学を中心とする学問は、出世を目的とするものであり、世の中の困っている人を救うものではなかったので、次第に仏教に興味をもつようになりました。そして、度々奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんぞうだいとく)を訪れて、み仏についての尊い話を聞いたのでした。
御出家(ごしゅっけ)
世のため、人のために一生を捧げようとして、み仏の道の修行を始めた真魚は、まもなく大学を去って、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島 県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けました。
そうして、ついに親戚の反対を押し切って出家することを決心、二十歳の時、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳を師として 剃髪・得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。のちに如空(にょくう)とあらため、身も心もみ仏の弟子となりました。
大日経の感得(だいにちきょうのかんとく)
二十二歳の時、名を空海(くうかい)とあらためた弘法大師は、当時の名僧高僧にみ仏の教えを聞きましたが、どうしても満足することができませんでした。そこで奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願しました。
すると、満願の二十一日目に「大和高市郡(やまとたけちのごおり)の久米寺東塔の中に、汝の求めている教法がある」という夢のおつげにより、大日経を発見しました。ところが、その大日経にはどうしても理解できないところがありましたが、たずねて教えをこう人は、この日本には一人もいませんでした。
そこでついに弘法大師は、唐(中国)に渡る決心をしたのでした。
入唐求法(にっとうぐほう)
唐(中国)に名僧のおられることを聞いた弘法大師は、三十一歳の延暦二十三年(804年)七月六日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆しました。天台宗を開いた最澄(さいちょう)も、このとき唐に渡りました。
今日とちがって船も小さく、いくたびか暴風雨にあったすえの八月十日、九死に一生をえて福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着しました。大使 が手紙を書きましたが、唐の役人は一行をあやしんで、上陸させてくれません。そこで弘法大師は大使にかわって州の長官に手紙を書きました。長官はその文章と書の立派なことにおどろかれ、「これはただの人ではない」と早速上陸を許されました。
その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上りました。
恵果和尚に師事(けいかかしょうにしじ)
長安の都に入られた弘法大師は、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行きました。
恵果和尚は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。
恵果和尚は弘法大師に会われるや「我、さきより汝のくるのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)に入ることを勧められました。
延暦二十四年(805年)六・七・八月と三回にわたり灌頂を受法した弘法大師は、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となりました。
恵果和尚は弘法大師に、「真言密教の教法(みおしえ)は、すべて授けた。早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」と遺言なされ、同年十二月十五日、大勢のお弟子にみまもられて、亡くなられました。
五筆和尚の称号(ごひつわじょうのしょうごう)
亡くなられた恵果和尚の生涯をたたえる碑を建てることになり、弟子四千人の中から、特に弘法大師が選ばれて、その碑文を撰び、書きました。この ことが唐全土に知れわたり、ついに皇帝の耳に入り、以前王義之(おうぎし)の書があった宮殿の壁に書をしたためるよう、弘法大師に命ぜられました。
弘法大師は、五本の筆を両手・両足・口にはさみ、一気に五行の書を書き上げました。その文字の見事なことに深く感心された皇帝は、弘法大師に「五筆和尚」の称号を贈りました。
御帰朝と飛行の三鈷(ごきちょうとひぎょうのさんこ)
恵果和尚について、真言密教の教法を余すところなく受けついだ弘法大師は、大同元年(806年)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。 弘法大師は明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ、教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。
三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行きました。
この三鈷が、高野山の御影堂(みえどう)前の松の枝に留っていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、この時の三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。
立教開宗(りっきょうかいしゅう)
真言密教の教法を日本国中に広めるために、明州から船に乗った弘法大師は、途中何度も嵐にあって、今にも船が沈まんとした時、右手に不動明王の剣印、左手に索印を結び、口に真言を唱えて波をしずめ、大同元年(806年)十月、無事九州の博多に帰りつきました。
帰朝の御挨拶と共に、「真言密教を日本全国に広めることを、お許し願いたい」という上表文を天皇陛下におくりました。大同四年(809年)、都へ 上ったお大師さまは、翌弘仁元年(810年)、時の帝嵯峨天皇(さがてんのう)に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開く許しを得たのでした。
長崎県五島市の「西高野山」大宝寺(後日詳しく紹介いたします)
重厚な山門が出迎えてくれる大宝寺。このお寺は約1300年前の大宝年間に創建されました。元々は三論宗の道融という人が開基しましたが、大同元年(806)空海が唐から帰国の際に立ち寄り、真言宗最初の道場として布教活動をしたことから、三論宗を真言宗に改宗しました。その後、西の高野山とも呼ばれています。
大宝寺は五島八十八ヶ所巡拝の八十八番札所でもあり、境内には「弘法大師霊場 祈願お砂奉安 四国八十八ヶ所巡拝御砂踏處」と書かれた大師堂があります。
また、奥の院の小高い丘の上には「へそ神様」と呼ばれる五重の石塔があり、子どもが生まれると、島の人々は健やかな成長を願って紙に包んだへその緒を石塔の下にある穴に納めたといいます。
神泉苑の雨乞い(しんぜんえんのあまごい)
天長元年(824年)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々の苦しみは大変なものでした。
この時、弘法大師は淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷を行いました。すると、善女竜王 (ぜんにょりゅうおう)が現れ、今まで雲一つなく照り続いた大空は、たちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせたので、生物はよみがえり、草木は生色をとりもどしました。
人々は喜び、弘法大師の徳を讃え、その法力をあがめたのでした。
般若心経を講義(はんにゃしんぎょうをこうぎ)
弘仁九年(818年)の春、日本中に悪い病気が流行し、老人も若人も病気になり、国中が火の消えたように、暗い気持につつまれました。
時の帝、嵯峨天皇はとても御心配になり、弘法大師を宮中にお召しになって、御祈祷を命ぜられました。人々を救うために、天皇は般若心経一巻を金字で写経して仏前にお供えされ、心経の講釈を弘法大師に命ぜられました。
一心に、御祈祷なされると、今まではびこっていた病気はたちまちおさまり、苦しんでいた人たちは元気になって、弘法大師の御徳はいよいよ高くなりました。
この時の講義の内容が、有名な「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」といわれています。
八宗論、大日如来のいわれ(はっしゅうろん、だいにちにょらいのいわれ)
弘仁四年(813年)正月、嵯峨天皇は弘法大師をはじめ、仏教各宗の高僧を宮中へ招き、仏教のお話を聞かれました。
当時の奈良の仏教では「長い間修行しないと仏様にはなれない」といってきましたが、弘法大師は「人はだれでもこの身このままで仏様になることができる(即身成仏 そくしんじょうぶつ)」と説いたのでした。
奈良の高僧は即身成仏の教法を信じなかったので、弘法大師は、手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念じました。すると、たちまちその体からは五色の光明が輝き、頭上に五智の宝冠を頂き、金色の蓮台に坐した大日如来となられました。
今まで非難していた高僧も弘法大師を拝まれ、天皇さまの信仰もいよいよ厚くなりました。
綜芸種智院といろは歌(しゅげいしゅちいんといろはうた)
弘法大師の当時、貴族の学校はありましたが、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。弘法大師は、だれでも勉強できるように、天長五年(828年)十二月、京都に綜芸種智院という学校を創りました。
また、当時学校で習う文字は、ほとんど漢字で小さい子供たちには、読み書きはむずかしかったので、弘法大師は、子供たちにもわかるやさしい言葉 で、お釈迦さまの「四句の偈(しくのげ)」を、四十八文字の仮名文字にして教えました。有名な「いろは歌」がそれですが、弘法大師が作られたと長く語りつがれてきました。
四国八十八ヵ所の開創(しこくはちじゅうはちかしょのかいそう)
第88番札所 医王山 遍照光院 大窪寺
弘法大師は若い頃、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽や、土佐(高知県)の室戸崎で御修行されました。その因縁で四十二歳の時、阿波、土佐、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)の四カ国を御遍歴になり、各地でいろいろな奇蹟、霊験をお残しになり、お寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場が開かれまし た。
弘法大師の同行二人(どうぎょうににん)の御誓願を体し、御遺跡をしたって、四国詣りをする人々が今は、年々数十万人にものぼり、悩み苦しむ人々が御利益をいただいておられます。
満濃の池完成の事(まんのうのいけかんせいのこと)
讃岐国(香川県)に、周囲16キロメートルに及ぶ満濃の池があり、雨の少ない讃岐では、田畑をうるおすのに大切な池でありますが、国の役人や、技師 が何千人という人を使って何度改築しても、ちょっと雨が降ったり、風が吹くと堤防が決壊するので、農民たちは困っておりました。
弘仁十二年(821年)天皇は太政官符(だじょうかんぷ)を下し、土木技術にも秀れていた弘法大師に、満濃の池改築の責任者を依頼されました。弘法大師が讃岐へ着任すると、その徳をしたって多勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。
今でも、この地方の人はこのお蔭を喜んでいます。
東寺御下賜(とうじごかし)
弘法大師は大同四年(809年)年から高雄山寺(たかおさんじ)に住まわれ、真言密教を弘められました。しかし、高雄山寺では不便なことも多く、また、狭く感じるようになりました。
弘法大師は弘仁十四年(823年)正月、嵯峨天皇から京都の東寺を給預されました。弘法大師は、この御恩に応えるため、東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と称して、皇室の安泰を祈願され、また真言密教の弘通に努ました。
応天門の額(おうてんもんのがく)
ある時、宮中諸門の額の字を書くよう命令が出されました。 弘法大師は「応天門」という字を書いて額を掲げました。かけおわって下から額をみると、「応」という字の第一の点がぬけております。いまさら額をおろすのも大変だし、登って書くこともできず、皆困りはてました。
しかし、弘法大師は少しもあわてず、下から墨をつけた筆を投げられたところ「応」の第一点のところに命中し、立派な点が打たれたので、皆その神技に感心した、といわれています。
「弘法も筆のあやまり」という諺があります。まさか、弘法大師が文字の最初の点を忘れることは考えられませんが、「弘法は筆を選ばず」などと共に、お大師の書芸のすばらしさを讃えた話の一つでしょう。
御修法(みしほ)
弘法大師はつねづね天皇陛下の御健康と、国民一人一人が幸せになり、世の中が平和になるようにと、祈念しておられました。
このことを末永く伝えるため、正月八日から七日間、御修法という御祈祷会を修され、結願の日(けちがんのひ)には、弘法大師が親しく、天皇陛下の御玉体(ごぎょくたい)に加持香水をそそがれました。
この尊い法会は承和二年(835年)正月からはじめられ、弘法大師御入定(ごにゅうじょう)後も、毎年かかさず続けられています。
高野山御開創①(こうやさんごかいそう1)
弘法大師は真言密教を広める根本道場を開くために、適当な場所を求めて、各地を巡錫(じゅんしゃく)していました。
ある日大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」とたずねました。そこで弘法大師は「伽 藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、あなたの求めているよい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。
この狩人が、今日高野山におまつりされている狩場明神(かりばみょうじん)であるといわれています。
高野山御開創②(こうやさんごかいそう2)
弘法大師は、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神(にゅうみょうじん)のお社のところまで来ました。
すると、明神さまが姿を現わされて、弘法大師をお迎えし、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」とつげました。
弘法大師は、この丹生明神と、さきの狩場明神の御心持に報いるために、二柱の神を高野山の地主の神様としておまつりになりました。今の伽藍の社がそれであります。
高野山御開創③(こうやさんごかいそう3)
高野山に登られた弘法大師は、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられました。
しかも、お大師さまが唐(中国)で御勉強の後、帰国に際して、明州の浜辺から投げられた三鈷が、この高野山の松の枝にかかっていました。
お大師さまはこの場所こそ私が求めていた土地だと、早速、真言密教の根本道場に定められました。弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。
御遺告(ごゆいごう)
弘法大師は、高野山を真言密教の根本道場と定め、約二十年の間御苦心され、高野山を中心に、全国に教法を広め、上は天皇をはじめ、老若男女の苦しめる者、悩める者に救いの法益を施しました。
弘法大師は、早くから限りある肉身で生きるよりも、永遠の金剛定(こんごうじょう)に入って、未来永遠に迷える者、苦しめる者を救うために、御入定を考え、承和元年(834年)、多勢のお弟子を集めて御諭しをしました。
御入定(ごにゅうじょう)
弘法大師は、六十二歳の承和二年(835年)三月二十一日、寅の刻を御入定のときと決め、のちのちのことを弟子たちにのべつくしました。御入定 の一週間前から御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印 を結び、弥勒菩薩の三昧に入りました。
御入定から五十日目に、弟子たちは弘法大師御自身が定めた、奥之院の霊窟にその御定身を納めました。
弘法大師は、天長九年(832年)の万灯・万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。つまり、「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てました。
諡号奉賛(しごうほうさん)
弘法大師が御入定されてから八十三年後の延喜十八年(918年)、寛平法皇(かんぴょうほうおう)は、醍醐天皇に「お大師さまに大師号を賜りたい」と願い出られ、さらに観賢僧正(かんげんそうじょう)も上表されましたが、勅許されませんでした。
延喜二十一年(921年)十月二十一日の夜、天皇の夢枕に弘法大師が立ち、「吾が衣弊くちはてり、願わくは宸恵(しんけい)を賜らんことを請う」といわれました。すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。
そこで、桧皮色の御衣を賜ると同時に、「弘法大師」という諡号(おくりな)を賜りました。十月二十七日、勅使少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前(ごびょうぜん)にて、詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われました。
御衣替(おころもがえ)
観賢僧正は、「弘法大師」の諡号をいただいたのち、天皇から御下賜の御衣を奉るため、高野山に登られました。そうして、御廟前に跪いて礼拝し、弟子の淳祐(しゅんにゅう)に御衣を捧げさせて、御廟の扉を開きましたが、弘法大師の御姿を拝することができませんでした。
観賢僧正はご自分の不徳をなげき、一心に祈られました。すると、立ちこめた霧が晴れるように弘法大師が姿を現わされ、御衣を取りかえることができました。
これ以来、今日にいたるまで毎年三月二十一日、御衣替の儀式が行われております。
弘法大師略年譜
宝亀五年(774年)一歳この年、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)に生まれる。幼名真魚(まお)。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)。母は阿刀(あと)氏。
延暦七年(788年)十五歳この頃、叔父阿刀大足(あとのおおたり)について、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。一説にこの年長岡京に上がる。
延暦十年(791年)十八歳この年、大学明経科に入学し、岡田博士らについて「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」等を学ぶ。この頃、一人の沙門(一説に勤操 ごんぞう)から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)を授けられ、以後阿波国大瀧ガ嶽(あわのくにたいりゅうがだけ)、土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)などで勤念(ごんねん)修行をする。
延暦十六年(797年)二十四歳十二月一日、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」一巻を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論ず。のちに「三教指帰(さんごうしいき)」と改題する。
延暦二十三年(804年)三十一歳四月七日、出家得度する。五月十二日、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と同船して難波を出帆する。十二月二十三日、長安に到着する。
延暦二十四年(805年)三十二歳二月十一日、空海、西明寺に移る。六月~八月、青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院灌頂(かんじょう)道場において恵果和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。十二月十五日、恵和和尚、入寂、年六十。
延暦二十五年(806年)大同元年[五月改元]三十三歳八月、明州を出発し、帰国の途につく。十月二十二日、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して留学の報告書「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。
大同四年(809年)三十六歳七月十六日、平安京に入る許可が下がる。八月二十四日、最澄、密教教典十二部の借覧を願う。
弘仁元年(810年)三十七歳十月二十七日、高雄山寺(たかおさんじ)において鎮護国家のために修法せんことを請う。
弘仁三年(812年)三十九歳十一月・十二月、高雄山寺において、金剛界・胎蔵結縁灌頂を最澄らに授ける。
弘仁四年(813年)四十歳十一月、最澄の「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。
弘仁六年(815年)四十二歳四月一日、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。
弘仁七年(816年)四十三歳六月十九日、修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う。七月、高野山の地を賜う。
弘仁九年(818年)四十五歳一説に、悪疫流行により、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」を表す。
弘仁十一年(820年)四十七歳十月二十日、伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)に叙せられ、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に任ぜられる。
弘仁十二年(821年)四十八歳五月二十七日、讃岐国満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。
弘仁十三年(822年)四十九歳二月十一日、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下がる。
弘仁十四年(823年)五十歳一月十九日、一説に、東寺を給預される。
天長元年(824年)五十一歳三月二十六日、少僧都(しょうそうず)に任ぜられる。六月十六日、造東寺別当(ぞうとうじべっとう)に任ぜられる。
天長二年(825年)五十二歳四月二十日、東寺講堂の建立に着手する。
天長四年(827年)五十四歳五月二十六日、内裏において祈雨法(きうほう)を修する。五月二十八日、大僧都(だいそうず)に任ぜられる。
天長五年(828年)五十五歳十二月十五日、庶民のために綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立する。
天長七年(830年)五十七歳この年、諸宗に宗義の大綱を提出させる。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を撰述する。
天長九年(832年)五十九歳八月二十二日、高野山において、万灯万華会(まんどうまんげえ)を修する。
承和元年(834年)六十一歳十二月二十九日、御七日御修法(ごしちにちみしほ)の勅許下る。
承和二年(835年)六十二歳 一月二十二日、真言宗に年分度(ねんぶんどしゃ)者三人を賜う。二月三十日、金剛峯寺が定額寺(じょうがくじ)となる。三月二十一日、高野山においてご入定(にゅうじょう)、年六十二、臈(ろう)三十一。
延喜二十一年(921年)六十二歳十月二十七日、観賢(かんげん)の奏請により、弘法大師の諡号(しごう)を賜う。
金剛峯寺とは
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
高野山開創
弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。
手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。
一山境内地とは
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。
金堂(こんどう)
高野山御開創当時、弘法大師の手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。 山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち52ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
金剛峯寺境内案内人のご紹介
大門(だいもん)
高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。左右には金剛力士像(仁王さま)が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。 また、大門の横手には弁天岳登山口があり、山頂には弘法大師が勧請された嶽弁才天(だけのべんざいてん)がまつられています。
中門(ちゅうもん)
金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。
金剛峯寺境内案内人のご紹介
高野山へご参拝に訪れた皆様に高野山の歴史や良さをもっとご理解していただけるよう金剛峯寺が主催する試験に合格した「金剛峯寺境内案内人」をご紹介いたします。
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伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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