先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
霊峰「立山」
古来より富士山、白山と共に日本三霊山として数えられ、最高峰の大汝山(標高3,015m)、主峰の雄山、富士ノ折立の3峰からなります。雄山頂上にある雄山神社峰本社(その1にて紹介)には、夏に多くの登拝者が訪れます。
日本は、国土の約7割から8割が丘陵や山地、山岳で占められた風土・環境にあるためか、古来、山を神聖視し崇拝の対象とする山岳信仰が発達し、それは平安時代末期頃にはシャーマニズム、道教、密教などの影響を受けながら「修験道」として体系化されました。こうした修験道の影響で日本各地に何百ヶ所もの修験の霊山が成立しました。
ところで近年、ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の名称で、吉野、大峰、熊野三山、高野山、熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道が登録され(2004年)、また最近では「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の名称で、富士山およびそれに関する文化財群が登録され(2013年)、今まさに山の歴史や文化の重要性が再認識されてきています。ながい歴史のなかで自然と対峙して育まれた山岳信仰は、日本の宗教や日本人の精神文化において重要な位置を占めるものと考えられます。
いみじくも、北陸は日本三霊山(富士山・白山・立山)のうちの白山・立山を抱え、また石動山や医王山などの霊山も存在し、研究フィールドとしては最適の場所といえます。北陸の霊山を中心に日本各地の山岳信仰の歴史や文化について調査・研究を行い、それをとおして現代人と山とのかかわり方を、ひいては自然とのかかわり方を模索していきたいと思います。
芦峅寺の姥尊信仰
『立山曼荼羅 大仙坊A本(姥堂・姥尊・奪衣婆)』(個人蔵・絹本4幅・133.0cm ×157.0cm〔内寸〕)
江戸時代、立山信仰の拠点村落である芦峅寺は加賀藩の支配下に置か れ、38軒の宿坊を構え、同藩の祈願所や立山禅定登山の基地としての役割を果たしていた。宿坊の主人は加賀藩の身分支配上は宗教者として扱わ れ、衆徒と称された。
芦峅寺衆徒は実生活上は焼畑も行い半僧半俗のかたちをとっていた。同時代、芦峅寺集落には、芦峅中宮寺の施設として姥堂・閻魔堂・帝釈堂・ 布橋・立山開山堂・講堂・拝殿・大宮・若宮・立山開山廟所などが建ち並んでいた。このうち姥堂は、江戸時代、姥谷川の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡った所に、入母屋造、唐様の建築様式で立っていた。
堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数にちなみ、66体の姥尊像が祀られてい た。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて座す。容貌は髪が長く、 目を見開き、中には口をカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげである。
現存の像は、いずれも南北朝時代(現存最古の姥尊は永和元年 〔1375〕に成立したものである)から江戸時代にかけて作られている。
この異形の姥尊は、芦峅寺の人々にはもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将たちにも、芦峅寺で最も重要な尊体と位置づ けられ、信仰された。
芦峅寺が立山信仰の宗教村落になる以前から、同村には猟師や杣・木挽などの山民や焼畑農民が存在しており、彼らは山の神に対する信仰をもっていたと推測される。それは縄文時代につながるものかもしれない。芦峅寺の姥尊は、まずこうした山の神を起源とするものであろう。
姥尊は、その後、同村が宗教村落として展開していくなかで、 鎌倉時代頃から日本で盛んになった外来の十王信仰の影響を受 け、南北朝時代頃までには、三途の川の奪衣婆と習合した。
江戸時代になると奪衣婆の信仰が庶民に広まり、ますます盛んになるにつれ、芦峅寺の姥尊も奪衣婆そのものになっていった。しかし、おそらく妖怪的な奪衣婆では、外部者に対して体裁が悪かったのだろう。そこで衆徒たちは姥尊の縁起を作り、それに仏教の尊格を当てた。
まず姥尊を立山大権現の親神とし、次に阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・不動明王などの本地を説き、それが垂迹して、醜いけれども奪衣婆的な姥尊の姿で衆生を救済するのだとした。
続く・・・
【寄稿文】 福江 充
北陸大学
国際コミュニケーション学部
国際コミュニケーション学科 准教授
参考
熊野本宮大社 証誠殿(御神門より)
熊野本宮大社雪の御社殿
熊野本宮大社
御由緒
創祀
崇神天皇御時始(『扶桑略記』)・崇神天皇六十五年現給(『帝王編年記』『水鏡』)
熊野本宮の創祀は文献上上記の通りとなっておりますが、その内容は下記の様なあらましとなります。
崇神天皇六十五年に熊野連〔くまののむらじ・又くまののあたえ〕大斎原(旧社)において、大きな櫟(いちい)の木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、
「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」
との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっています。当地は神話の御代より熊野の国となっており、大化の改新(西暦六四五年)まで続きました。連(むらじ)とは大和朝廷時代に、主として神別(しんべつ)の諸氏が称した姓(かばね)で、臣(おみ)と並ぶ有力豪族が多い。神別諸氏とは天神地祇の子孫と称する氏のことです。
熊野速玉大社 御社殿
熊野速玉大社 摂社 神倉神社
熊野速玉大社
御由緒
熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にみえます。
御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。 特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。
奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。
さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。
古歌にみる熊野詣の心
熊野へ参るには 紀伊路と伊勢路とどれ近しどれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀伊路も伊勢路も遠からず
梁塵秘抄
なぎの葉に みがける露のはや玉を
むすぶの宮や ひかりそふらむ
夫木集 検校法親王
熊野那智大社 大鳥居と御社殿
熊野那智大社 別宮飛瀧大神
熊野那智大社
御由緒
熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。
命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。
その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。
やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。
その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九〇七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。
なお「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。
その「神の里」に詣で、漂う霊気にひたり、神々の恵みを得ようとして、古代から多くの人々が熊野へ、そして那智山へ参詣されています。
那智山青岸渡寺三重塔と那智大滝
那智山青岸渡寺
御由緒
「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の礼所であります。青岸渡寺の縁起によるとその開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。
その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。
平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。
現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。
青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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