このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
神宮寺(国の重要文化財)
山号霊応山。天台宗。
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。
本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建しました。
本堂の大きさは五間六間の建物です。桁行五間、梁間六間、間口14.34m、奥行16.60mの単層入母屋造、桧皮葺で、石基壇上に立ち、腰四面に廻縁を設け勾欄を巡らしています。
太い円柱に和様出組の斗栱を用い、蛇腹支輪を備え、中備には正面に精巧な本蟇股を置き、正面五間ともに折上蔀戸を建て、二軒繁棰をもって覆いたる本堂は、中世末期建築として実に堂々たる風姿で君臨するかのようです。
建築様式は、和様を主体にしたなかに、木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大陸の技法が用いられており、妻飾も軒隅の反転とともに華麗な姿を表しています。
若狭神宮寺に祀られる神様
若狭比古明神
若狭比売明神
白石鵜瀬明神
手向山八幡大神
那加王比古大神
志羅山比売大神
「神仏」世界遺産を目指す若狭小浜
仁王門は、神宮寺北の玄関口で、間口6.37m、奥行き3.64m、棟高5.5mで8本の柱の上にこけらぶきの屋根がのっていました。構造や規模は簡素ですが、珍しい形をした蓑束などの様式は室町建築の先駆とさえいわれています。両端に安置されている木造金剛力士像には、至徳2年(1385)の墨書がみえます。
毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。若狭では、お水送りが終わると春が訪れるといわれています。
お水送り(おみずおくり)
3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事です。
奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。(両市は、この天平時代からの1,200年の歴史の輪廻により、昭和46年より姉妹都市盟約を締結しています。)
「お水送り」は午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げます。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためです。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込みます。
午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放ちます。
午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場します。
お水送り(修二会)
大護摩
午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回します。
いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになります。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられます。
<松明行列について>
・午後7時30分頃からの約2kmの松明行列には、市民、観光客の皆さんも手松明を購入して参加することができます。神事が執り行われる「鵜の瀬」の水は「名水百選」にも選ばれている小浜の名水で、昼間には美しい水を湛えた景観が見られます。
・手松明はできるだけ事前にご予約ください。(当日ご購入用も若干ご用意しています。)
名水「鵜の瀬」
名水百選(環境庁認定)に選ばれている鵜の瀬は、毎年3月2日に奈良東大寺二月堂への「お水送り」の送水神事が行われる所です。
お水送りの送水神事は、神宮寺から山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に3,000人程の松明行列が、ほら貝の音とともに2km上流の鵜の瀬へ向かい、河原で護摩が焚かれた後、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぎます。
このお香水は10日かけて東大寺・二月堂の「若狭井」に届くといわれ、奈良のお水取りは3月12日に行われます。
お水送りの伝説
その昔、奈良で神様の会合があった時、若狭の神様である遠敷明神は釣りをしていて遅れてしまい、そのお詫びとして、本尊に供えるお香水を送る約束をしました。すると、奈良東大寺の二月堂の下から、白と黒の鵜が飛び立ち、きれいな水が湧き出したということです。その井戸は「若狭井」と名付けられています。
「お水送り」「お水取り」の神事の起源は、なんと神様の遅刻だったんですね。鵜の瀬の淵は東大寺二月堂の若狭井に通じていると言われており、福井から送られた水が奈良に届き、修二会に合わせてすくい上げられることで、1200年の時を越え、遠敷明神の約束は守られ続けているのです。
東大寺・二月堂の「お水取り」
■白石神社
「瀬にしみて奈良までとどくせみの声」静寂の中に山口誓子の歌碑がたたずむ。
奈良東大寺の開祖「良弁和尚」生誕地の碑が建っています。
若狭彦神社の外社で、若狭彦神社が現在地に遷座される前の創建地です。
小浜市下根来9‐2(鵜の瀬近く)
※注)お水送り準備等のため、2月15日から3月5日まで若狭神宮寺の拝観はできません。
小生も気を付けなければ、昔から名古屋には名古屋時間というのがありまして、かっては集合時間より30分遅れるのが当たり前でした。現在では、とても通用しないことで、昭和はモーレツの時代だったが、それでもどこかノンビリしたところもあり良い時代でした。
仁王門(国の重要文化財)
この八脚門は、そのむかし、神宮寺七堂伽藍二十五坊を完備して、隆盛を誇った当寺の北門として、参詣の人びとその跡を絶たなかった門です。
どこか古代を感じさせる!門をくぐると時が止まっているかも…
構造規模は極めて簡素で、単層屋根、切妻造り、柿葺の八脚門であり、間口は6.37m、奥行3.64m、棟の高さは5.5mです。
鎌倉時代末期の建築物として大変優れ、京都教王護国寺蓮花門などとともに、その様式に鎌倉期の特色を多く残しています。和様式の斗栱、円柱を中心にして、柱間蟇股の古様式は格段の逸品とされています。また間斗束としての蓑束は、この時代としては珍しい形をとっており、室町時代建築の先駆をなしたものといえます。軸部頭貫の木鼻は発達過程をみる上に、天竺様式伝来当初の造形として価値高いものがあります。
妻飾をみると、棟虹梁を受ける板蟇股と桧一枚板破風は如何にも鎌倉期の雄壮美を示しています。そして腰長押はいっそう安定感を強くしています。
門の両端に密迹、那羅延の木造2金剛力士を安置。高さ2.1m、胎中に至徳2年(1385)の墨書があります。
金剛力士像は金剛杵をもった夜叉のことで、一般に「仁王さん」として親しまれる像です。
阿吽の二像により寺院の門に安置され、寺院を守ることからこう呼ばれています。
神宮寺の金剛力士像は、当寺の広大な寺域の北門であった仁王門(重文)に安置されています。
昭和26年の仁王門の修理と同時に本像も修理され、多くの箇所が補われ、かつ古色仕上げされ修理時には、至徳2年(1385)の墨書が本像から確認されていますが、その詳細については明らかではありません。像自体の作風は鎌倉時代にまで遡る古さを示しており、北門の創建年代を一考する上で大変に興味深い。
針葉樹の寄木造で、古色仕上げ、玉眼を持つ。像高は阿形像235.5cm、吽形像237.5cmを測り、市内で最も大きな像になります。
本像のある北門から参道を望み見ると、鎌倉期以後、七堂伽藍二十五坊を備えた神宮寺の隆盛が偲ばれます。
木造男神・女神坐像(国の重要文化財)
若狭一の宮の別当職に任じた神願時(後に根本神宮寺)の奥の院に安置された神像で、男神像は衣冠束帯、女神像は小桂姿の坐像です。像高はそれぞれ49.1㎝、50.9㎝、ともに厚い彩色を施す。
神と仏との融合が企図され始めた奈良時代にすでに神像の制作が始まったかと想像されるが、現在の神像中、最古のものは東寺、薬師寺などの僧形八幡と二女神の像で、平安初期以前の作例はいまはありません。
二神像は小像ですが、頭体部を一材から木取りし、両肩外側に別材を当て、膝前に横材をはぎつける構造で、概ねの木寄法に倣ってつくられ、像の表面には漆下地の上に彩色を施していますが、この彩色は後補です。
両像ともに、両袖をひろく台座の上面にひろげ、安定感のある像容をつくっていますが、何れも相好に生彩があるものの、やや写実に過ぎるうらみがあり、膝前の薄く、やや弱いあたりをみると、制作は南北朝~室町の過渡期でとおもわれます。
二像とも、仏像とはちがって、わが国の古来の服制を示し、仏像にくらべて簡古の作風を示すあたりに、神像らしい特色がうかがわれます。
神宮寺の本堂に向って左側にシイノキの巨木が生えています。根廻り15.27m、目通り6.17m、高さ17.50m、東西の枝張り22.80m、南北の枝張り21.00mのスダジイです。仁王門近くや本堂の裏などにもシイノキの巨木が見られますが、おそらく鬱蒼としたシイノキの森であったと思われます。スギを主とした近くの若狭彦神社の社叢と比較してみるのも面白いですよ。
参考
シイノキはぶな科の常緑喬木で、日本、朝鮮南部に分布しています。アジアを中心に30種、北米西部に1種仲間があります。日本にはコジイとスダジイがあり、関東以西の暖地の神社林・屋敷林などに多く見られ、また庭木や公園樹としても植えられています。 初夏のころ咲く花は、同じブナ科のクリやクヌギの花と同様に、 特有の匂いを強烈に放つ。スダジイの樹皮はなめらかであるのに対し、ツブラジイ(コジイ)の樹皮は縦に割れ目ができます。
また、スダジイの果実は細長いがツブラジイ(コジイ)の果実は小さくて丸いことなどから両者は区別されます。果実はドングリとちがって渋みがなく食用となり、材はシイタケのほだ木や薪炭のほか、建築用、 器具用としても使われるが、常緑広葉樹林自体が少なくまた伐採される量も多くはないので、材の利用はあまり行なわれない。
木材としては木理は粗。比重は0.52。直径1m。放射孔材。心辺材の境界が不明瞭で、ともに淡黄褐色~黄褐色。緻密ではあるが肌目は粗く、見た目は堅固だが意外にもろい。乾燥が難しく、割れ、ねじれ、狂いが生じやすい。加工が容易で、着色性もよい。家具材料としてまったくといっていいほど人気がないが、木肌の荒い雰囲気のなかに目の通った落ち着いた感じもあり、面白い表情をしています。ただし油気がないので、曲げは無理。
神宮寺のスダジイは全国的には25番目くらいであり、石川県輪島市の岩倉寺境内にあるシイノキに次いで大きなものです。福井県では、三方町成願寺のシイノキに次いで2番目に大きい。樹令は約400年ぐらいと思われます。
ツブラジイは寿命が短く、100年を超えることは少ないといいます。しかし、スダジイは寿命が長く、巨木となって地域の天然記念物などに指定されて保護されている場合も多い。
なお、本堂前のコウヤマキの巨幹は建物に面した側が大きく枯れています。数回の落雷による損傷という。
スダジイの近くに青畝の句碑がたっています。
――鷲や鳶 翅たわませて青嵐――
追記
本日は、小浜における数多くの神社仏閣をご紹介する予定でしたが、相変わらず横道にそれ締め切り時間を遥かにオーバーしてしまいました。奈良の東大寺と関係の深い神宮寺のみになってしまいましたが、来年の「お水送り」と「お水取り」両方とも参加したいと思っていただけるならば幸いです。
これにて終了とし続きは次号にて・・・
続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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