このたびの平成30年 7月豪雨により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
尼崎市民の願い!平成30年10月竣工予定の「尼崎城」天守閣。(外観パース)
あまがさき次の百年
尼崎城プロジェクト
尼崎城の開城式典・一般公開日が決まりました!
建築中の尼崎城は5月に上棟が無事に終わり、現在、平成30年10月末の竣工に向けて、概ね予定どおり順調に進んでいおり、竣工後、11月以降には、お城の内部展示や城址公園の整備を進めていくとのこと。また、今後は尼崎城の完成・一般公開に向けて、様々な機会をとらえ市・県内外に向けPR・イベントを行い、機運の醸成を図っていきます。
一般公開について
一般公開日:平成31年3月29日(金)
一般公開日を含む3日間、城址公園内や尼崎城周辺エリアでイベントを開催する予定。
入城料:一般・学生500円、生徒・児童250円
尚、平成31年3月28日(木)は、関係者の記念式典が行われます。
尼崎の歴史
低地に営まれた弥生時代の住居跡および墓地跡。昭和40年、41年の発掘調査で、竪穴住居跡等のほか、木棺墓・壺棺墓が多数発見されています。従来不明だった近畿地方弥生時代の墓制が明らかになりました。
尼崎の歴史
猪名川と武庫川という二つの流れが育んだ尼崎地域には、海・川と大地の産み出す豊かな実りを求めて、原始より人々が居住しはじめたのでした。やがて、古代から中世にかけては、大和・難波・京といった政治・経済の中心地と、西国・瀬戸内を結ぶ海陸交通の要地として、尼崎の地は栄え、さらに近世には、大坂の西の備えの城下町として発展し、近代には日本有数の工業都市となるなど、歴史のなかで常に重要な位置を占めてきました。
江戸後期「尼崎城下風景図」(尼崎市教育委員会所蔵)尼崎市指定文化財
戦国時代には、尼崎城、富松城、塚口城といった城が、現尼崎市域に築かれました。このことからも、摂津地域の軍事拠点として尼崎地域が重要な位置を占めていたことがわかります。今日でも、富松城跡の土塁や塚口の旧集落を囲む環濠跡に、その名残を認めることができます。
自治都市であった尼崎は、この戦乱の時代にも、大名の武力に屈せず抵抗することがありました。このため、応仁元年(1467)には周防など4か国の守護であった大内政弘に、また永禄12年(1569)には天下統一を進める織田信長によって焼き討ちにあっています。また尼崎地域は、信長に対抗した一向一揆の拠点でもありました。
天下布武を唱えた若き織田信長公と背景には、金華山頂上の居城・岐阜城が観える
尼崎藩の設置と尼崎城の築城
近世に入ると、政治・経済・軍事などあらゆる面で、大坂が幕府の西国支配の最重要拠点となりました。その西に位置する尼崎は、軍事上、大坂の西を守る要(かなめ)の地として、幕府から重視されることになります。
このため幕府は、大坂の陣ののち、元和3年(1617)に譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)を尼崎に配置し、新たに四層の天守を持つ本格的な近世城郭を築城させました。築城工事は元和4年(1618)に開始され、数年後に完成したものと思われます。
尼崎城完成イメージ。手前は庄下川
この尼崎城築城にともなって、城の建設地や中世以来の尼崎町にあった寺院が、城の西に集められて寺町となりました。寺町には今も11か寺が残っており、建物や収蔵品には文化財に指定されているものも多く、江戸時代以来の城下町の面影を現在に伝えています。
寺町の南には武家屋敷町が配置され、また少し後には城の南の島に築地町が建設されて、近世城下町としての尼崎町ができあがっていきました。大坂から西国へと通じる中国街道が、城を南に迂回して城下町を通過していました。
尼崎藩の藩主と藩領
尼崎城を居城とした尼崎藩の藩主は、初代が戸田氏鉄、その跡を継いで寛永12年(1635)から青山氏、宝永8年(1711)以降は松平氏(桜井松平)と、いずれも徳川譜代の大名でした。その領地は、戸田氏・青山氏が5万石、松平氏が4万石で、現尼崎・伊丹市域から現神戸市域の須磨まで海岸地帯一帯に広がっており、尼崎城下町に加えて、高い経済力を有する兵庫津や西宮町が含まれていました。
尼崎城を守備する藩にふさわしい、豊かな領地が与えられていたことがわかります。しかしながら、松平氏が藩主であった明和6年(1769)、兵庫津・西宮町を含む灘目の海岸地帯は幕府にとり上げられ、かわりに播磨国赤穂郡・宍粟郡・多可郡に飛地が与えられました。
一方、現尼崎市域は、江戸時代にはすべて尼崎藩領だったわけではありません。現在の園田地域は幕府領や旗本領などで尼崎藩領はなく、ほかにも藩領にまじって旗本領や大名飛地領などが点在しており、なかには同じ村を2人~3人の領主が分割して領地とする村もありました。
近世の尼崎地域
近世の尼崎地域は、大坂近郊の流通の発達した先進地で、農業の面でも綿や菜種といった商品作物が盛んに生産され、米も酒米として商品化されていました。こういった商業的農業の隆盛を背景として、村々における新たな農地の開発や農業生産の増大が図られたほか、海岸部では大規模な新田開発が実施されていきました。
尼崎地域では古代以来、大阪湾の沿岸潮流と武庫川・猪名川の運ぶ土砂の堆積によって海岸が南に進展し、その地を人々が開発して農地や町を築いてきましたが、江戸時代に至ってその流れが一層大規模で組織的となったのです。
それと同時に、農業をささえる治水や水利も、整備されていきます。洪水を繰り返す武庫川の治水には、特に大きな努力が払われました。尼崎藩は、幕府から、武庫川・猪名川上流の西摂・北摂を担当する土砂留(どしゃどめ)大名を命ぜられ、山の管理や河川の普請にあたりました。
水運の面では、尼崎の港は古代・中世ほどの勢いは失ったとはいえ、神崎川・淀川を通って京と尼崎を結ぶ過書船や、大阪湾周辺を行き来する渡海船が盛んに往来しました。漁業や魚取り引きも盛んで、城下中在家町には魚市場があり、生魚問屋の取り引き範囲は瀬戸内海全域にまで及びました。
文化の面では、久々知の広済寺が近松門左衛門の墓のあるゆかりの寺として知られており、今も多くの人が近松を偲んで訪れています。
これからの尼崎
尼崎版観光地域づくり推進指針について
① 観光による、地域の稼ぐ力の向上
② 観光による、 まちの魅力と価値の向上
③ 観光による、シビックプライドの醸成
1 新しい尼崎のまちづくり
尼崎市は、かつての尼崎城を中心とした城下町を礎に、わが国の高度成長とともに産業都市として発展し、2016 年に市制 100 周年を迎えました。その道程は決して平坦な ものではありませんでしたが、常に様々な課題と向かい合いながら先人の英知と弛まぬ努力により乗り越えて歩んできました。
そして今、尼崎市はこれまでの歴史と培ってきた 資産を受け継いで、より魅力あふれる尼崎を創り引き継いでいくため、新たな100 年に向けての人づくり・まちづくりの取組を始動させています。
尼崎城下町「楽市楽座」
2 まちづくりの新たなエンジン
現在、人口減少や少子高齢化の進行などにより、全国的に社会経済活動は収縮していく傾向にあり、尼崎市においても例外ではありません。そうした中にあって、尼崎の魅力や活力、そして価値を高めていくためには、市域外からの来訪者を増やし、交流人口とこれに伴う経済効果の拡大を図っていくことが大切であり、現在推進しています。
そのため、今後においては、これまでまちを育て支えてきた地域経済活動を維持していくことに加え、尼崎のまちに培われてきた資産を最大限活用しながら、「観光」の視点に立って地域をつくる「観光地域づくり」に取り組み、これを新たなエンジンとして100年のまちづくりを行っていきます。
3 歴史と未来をつなぐ尼崎城
まちづくりの大きな節目を迎えるなか、尼崎の発展の礎となった城内地区に大勢の 方々の期待を受けて尼崎城が再建されます。
この契機を捉え、次の 100 年に向かって築かれる城が歴史と未来を、そして尼崎と市外から訪れる人をつなぎ、まち全体にさらなる賑わいが拡がっていくことを目指し、「観光地域づくり」においては、尼崎城を中心に据えた取組を展開していくことにより未来が開かれることでしょう。
藩主氏鉄の大垣城入り
大垣城
大垣城天守閣
大垣城柳口門
大垣城は、岐阜県大垣市郭町にある平城です。 別名、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれています。 現在は大垣市指定史跡となっています。 現在の天守は、鉄筋コンクリート構造の復元天守です。 この大垣城は築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみのであったと伝えられております。
1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄が大垣に移封されて、城が改築されて最終的な姿とされています。 戸田氏が城を改修した後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていました。
本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていました。
以降、明治維新に至るまで大垣藩戸田氏の居城となっていました。
旭光山円通寺は戸田家歴代の菩提寺として慶長6年(1601)、戸田氏鉄により開かれました。
木造瓦葺の山門は、落雷などにより焼失したが、天保年間(1830-1844年)に再建されました。
円通寺から50メートル位のところには、八幡神社があります。
八幡神社には君が代にも詠われている「さざれ石」が鎮座しています。
境内には地下水が湧き、水の都・大垣の名水をどなたでも自由に飲むことができるのです。
県外からも空のペットボトル持参で八幡神社参りです。訪ねてみては!
大垣まつりは平成28年12月1日、「山・鉾・屋台行事」の1つとして「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。
大垣まつり 「大垣祭の軕行事」は、大垣の城下町祭礼として伝承されてきた美濃地方を代表する祭礼行事であり、 大垣藩主下賜(かし)の軕と町衆の軕が併存する形態は全国的にも希少です。 また、からくり人形には中京圏の山車(だし)行事、軕上(やまじょう)の芸能には近畿圏の山車行事の影響が色濃く、 東西の祭礼文化の交渉がうかがわれるなど、国内の山(やま)・鉾(ほこ)・屋台(やたい)行事の伝播や変遷を理解する上で重要とされています。
大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを御輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両の軕(出しもの)を造って曳回したのが始まりといわれています。
協力(順不同・敬称略)
尼崎市役所 〒660-8501 兵庫県尼崎市東七松町1丁目23番1号 TEL: 06-6375-5639
尼崎市役所 ひと咲きまち咲き担当局 まち咲き施策推進部 城内まちづくり推進課
〒660-0862 兵庫県尼崎市開明町2丁目1番地の1(開明庁舎3階) TEL:06-6409-4146
一般社団法人 岐阜県観光連盟 〒500-8384 岐阜県 岐阜市 薮田南 5-14-12
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大垣市役所 〒503-8601 岐阜県大垣市丸の内2丁目29番地 電話: 0584-81-4111(代表)
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国土交通省 〒100−8918 東京都千代田区霞が関2-1-3 (代表電話) 03-5253-8111
経済産業省 〒100-8901 東京都千代田区霞が関1-3-1 代表電話 03-3501-1511
尼崎城と大垣城は共に戸田氏鉄公の居城でした。
ご先祖様の故郷「尼崎」小生の生まれ故郷「大垣」、時を超えて両市の交流が益々深まっていくことを心より願っています。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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