国名勝指定 江馬氏庭園 (飛驒市)
飛驒市域東半部の神岡町に所在し、高原川中流域右岸にある段丘中央部に立地している。
14世紀から16世紀にかけて北飛驒を掌握していた江馬氏に関連する遺跡群は史跡江馬氏城館跡に指定されている。
江馬氏館跡庭園は、このうちの居館跡(下館跡)に発見された庭園遺構で、15世紀末から16世紀初頭にかけて完成したものと考えられ、平成11年度から平成22年度にかけて保存整備されて公開されている。
居館敷地の南西隅に、会所と土塀に囲まれた空間に景石石組みを伴う不整形の園池が設けら れ、会所からは土塀越しに左手に高原諏訪城のある山を望み、右手にかけて北飛驒の山地を遠望する。
土塀の内側には緩やかな野筋を設け、手前に園池を配する。園池には底打ちや導水路、排水路などは確認されず、池底は透水層から成って枯れ池の意匠を呈する点は、この庭園において特徴的である。 室町時代における庭園文化の地方への伝播と多様化を示す重要な事例として庭園史上の価値 が高く、保存整備によって芸術上及び観賞上の価値も顕在化された。
史跡江馬氏城館跡【飛驒市神岡町殿574番地1外 7筆】
史跡江馬氏城館跡は、中世に飛驒国吉城郡高原郷を本拠とした江馬氏の居館跡(下館跡)及びその背後の山に築かれた本城の高原諏訪城跡、並びにこれら周辺に点在する山城跡からなっている。
史跡指定地は、神岡町内を南北に貫流する高原川及びその支流山田川に沿うように走る国道 471 号、41 号を眼下に臨む地にある。
これら国道は信濃、南飛驒、越中方面へ通じる中世以降の古道を引き継ぐものであり、両国道の結節点を中心にして神岡町の市街地が形成されており、江馬氏下館跡は中心市街地から南方約1km地点にある。下館跡から4km圏内に高原諏訪城跡、寺林城跡、洞城跡、石神城跡、があり、西方約6km地点に政元城跡、さらに下館跡から北方約9kmに土城跡がある。 (昭和 55 年(1980)3 月 21 日に国史跡に指定)
接客の間
接客の間より庭園を望む
主人の間
【参考資料】
○指定名称 江馬氏館跡 庭園
○所 在 地 飛驒市神岡町殿574番地1外 7筆
○面 積 1,352.25㎡
○指定基準 一公園、庭園
○概 要
江馬氏館跡庭園は飛驒市域東半部の神岡町にあり、高原川中流域右岸にある段丘中央部、標高約455mに立地する。周知の埋蔵文化財包蔵地として登載されている江馬氏城館跡下 館跡の北部中央、史跡江馬氏城館跡※1のほぼ中央にある、室町時代15世紀末から16世紀初頭の江馬氏※2の居館の庭園跡を復元した庭園です。
飛驒市教育委員会が昭和48年度から53年度に土地改良工事に先立つ調査を、その後平成6年以降には史跡整備に伴う発掘調査を実施し、約100m四方の敷地内に室町時代の堀・土塀・門・庭園・会所を確認しています。
昭和52年6月には県史跡「江馬館庭園跡」に指定、昭和55年3月には、江馬氏との関連が伝わる6つの山城跡(高原諏訪城跡、土城跡、寺林城跡、政元城跡、洞城跡、石神城跡)とあわせて「江馬氏城館跡」として国の史跡指定を受けています。
庭園は会所、土塀、板塀に囲まれた面積1352.25㎡の区画内に位置します。庭園の中央部には東西27m、南北12mの東西に長い不整形を呈する園池があり、園池の中心となる位置東側汀線に、大型で長径2.2mの景石※3を配置しています。調査前からこの辺りには、1mを越える大きな景石が6つ散乱していました。発掘調査で景石を配置した痕跡を確認し、それをもとに復元しています。
石材は船津花崗岩※4とホルンフェルス※5の2種類を使用し、大きさと色を意識して高低の変化をつけ、庭園と土塀の背後に広がる山並みとの対比を意識しつつ配石しています。土塀の内側には緩やかな野筋※6を設け、手前に園池を配しています。
園池には底打ち※7・導水路・排水路がないことから意図的な滞水はなく、数日雨が降り続くと会所の月見台前に滞水し、水のある景色とない景色の両方を観賞できます。
庭園の空間は館が成立当初の14世紀末からあったものと推定されており、館の最終時期の会所※8と庭園はセットで15世紀末から16世紀初めに完成したと考えられています。
このように江馬氏館跡庭園は、発掘調査で判明した遺構に基づいて室町時代の庭園・会所・板塀・土塀を含めた庭園区画が再現されており、室町時代後半の庭園の芸術性及び観賞性を目の当たりにすることできる重要な名勝であると言えます。
史跡整備事業は平成11年から開始され、平成19年10月に史跡江馬氏館跡公園として一般供用を開始、平成22年度には整備工事が完了して全敷地において供用を開始しています。
会所・庭園は、冬季以外は入館料を支払って見学することができ、飛驒市教育委員会により「殿様気分を味わえる」体験学習、夜間公開、音楽コンサートなどが開催され、地元小学校の学習見学も行われています。
【用語解説】
江馬氏
その出自は明らかではないが、13世紀伊豆国江馬庄を所領としていた鎌倉幕府執権北条氏か、その在地御家人であった伊豆の江馬氏の一族が飛驒に所領を得て、この地に入ったと考えられる。14~15世紀にかけての姿は『山科家文書』や『烏丸家文書』などに残されており、14 世紀には中央と密接な関係で地域を治め、15 世紀になると領主として自立した地位を確立していたことが確認できるが、天正 10 年(1582)、江馬氏は姉小路(三木)氏に敗れて滅亡し、北飛驒の領主としての地位を失った。
船津花崗岩
庭園の東側の山地に分布する岩石。飛驒市内に広く分布する。
景石
日本庭園で風趣を添えるために所々に配した石。
ホ ルンフェルス
高原川に分布する青灰色の岩石。変成岩の総称。
野筋
平安時代からの庭園用語で、低い盛土でゆるやかな起伏をつけた小丘をいう。
築山の裾のなだらかな部分をさすこともある。
底打ち
水を用いた池の底の固い粘土敷きのこと。
会所(かいしょ)
中世に公家・武家・寺社の住まいに設けられた施設の一つで、室町時代に発達し、歌会や月見などのための会合に用いられた客殿のこと。
室町時代前半の15 世紀初め、足利義満が室町殿(花の御所)を造営し、園池とそれを鑑賞する建物を合わせた空間でもてなす儀礼が成立した。それが 15 世紀後半になると、正式な儀礼空間として各地に広がっていった。特に応仁の乱以降、貴族や僧侶をはじめ、芸能者などの文化人が京を離れて地方の有力武将を訪問するようになる。各地の地方武士の城館では、連歌や茶会などを行い、客人をもてなすための会所と庭園が造られるようになった。
禅僧・万里集九の日記にも、延徳元年(1489)に高原郷(現在の飛驒市神岡町)を訪れ、江馬氏の饗応を受けた記録が残っている。江馬氏が会所・庭園を使ってもてなしという室町幕府と同様の儀礼を行っていたことが分かるのである。下館跡庭園は室町時代に庭園文化の伝播の中で成立に至ったのであろう。
下館跡平面図
〈参考事項〉
○国指定に係る法令等
◇第百九条 文部科学大臣は、記念物のうち重要なものを史跡、名勝又は天然記念物 (以下「史跡名勝天然記念物」と総称する。)に指定することができる。
2 文部科学大臣は、前項の規定により指定された史跡名勝天然記念物のうち特に重要なものを特別史跡、特別名勝又は特別天然記念物(以下「特別史跡名勝天然記念物」と総称する。)に指定することができる。
◇特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(抜粋)
名勝
左に掲げるもののうちわが国のすぐれた国土美として欠くことのできないものであって、その自然的なものにおいては、風致景観の優秀なもの、名所的あるいは学術的価値の高いもの、また人文的なものにおいては、芸術的あるいは学術的価値の高いもの
一 公園、庭園
岐阜県国名勝一覧
1 霞間ヶ渓 (サクラ) 揖斐郡池田町 S3.2.17
2 木曽川 可児市、各務原市、坂祝町 S6.5.11
3 鬼岩 可児郡御嵩町、瑞浪市日吉町 S9.1.22
4 永保寺庭園 多治見市虎渓山町 S44.4.12
5 東氏館跡庭園 郡上市大和町 S62.6.13
6 おくのほそ道の風景地 大垣船町川湊 大垣市船町 H26.3.18
7 江馬氏館跡庭園 飛驒市神岡町H29.6.16
夢窓疎石作庭による虎渓山永保寺庭園(岐阜県多治見市)
今回の記事では、この江間氏作庭について、画像を暫し拝見している内、岐阜生まれの編集者としてはかなり、不思議な違和感が出てまいりました。何故ならば… 当地方、岐阜・飛騨は、檜、栃、欅、杉、楠、高野槙、明日桧、柘植、イチイ、栗、カヤ・・・と多様な樹種の産地です。そして古よりそれらを適材適所に使いこなす匠たちのふるさとでもあります。
つまり、これらの材木は何れも典型的な日本建築用材です。 それと共に、この城郭の庭園内にある室町時代のものとされるこの客人を迎える建物 "会所"は当然飛騨の匠によって入念に設計されたものと解釈するところですが、やはり、当時の豪族屋敷の典型とは異なる不思議な感覚を受けてしまうのです。
再び、庭園に目を移してみましよう。そこで解ったのは…
この庭園の作りに原因があったようです。
その理由は、この北飛騨にあっては樹木を一切廃した枯山水の元祖とも申すべき、土塀で囲った水平線の輪郭をもつ広々とした眺め。つまり…
〜居館敷地の南西隅に、会所と土塀に囲まれた空間に景石石組みを伴う不整形の園池が設けら れ、会所からは土塀越しに左手に高原諏訪城のある山を望み、右手にかけて北飛驒の山地を遠望する〜
これを見て直感することは、周辺の山々を見下ろす空間の拡がりが、視界を遮るもの、緑を愛でるもの、何一つないのです。庭の中には樹木や草花そして、高低差の変化がないので、障子越しに入る日差しに緑の光陰が些かも含まれない理由になっています。
枯山水庭園の典型龍安寺でさえ、方形庭園を囲む背景は鬱蒼とした樹木菻です。
しかし、江間氏庭園の眼下に広がる風景は、日本における借景手法には論理的矛盾はないけれど、何とも古代中華思想を直に受けた平城京風の雄大なる城郭的主張が見え隠れしていますね〜。
それに対して、私達が"和風庭園"の美として遺伝子に組み込まれて来たのは、深山幽谷の自然風景を模した、例えば虎渓山永保寺庭園(岐阜県多治見市)とか、乾徳山恵林寺に観る夢窓国師(夢窓疎石)の作品こそが、典型としてイメージされるものです。それは所謂、水を引いて滝を落とした池泉回遊式庭園と言われますが、作者自身が"山水"と呼んだ如くその作庭様式は山水思想にあり、今日の禅宗庭園の基礎と成ったのです。のちに作られた天龍寺や西芳寺の庭園も続けて見てみると、山水類型であって、江間氏庭園との違いが浮き彫りとなるでしょう。
早く言えば、江間氏型は乾燥環境のイメージ=高所から眺めた限りなく続く展望型風景。大陸的主張の趣き。
対する山水庭園は大雑把に温暖湿潤環境※=自然共生型風景ですし、深山幽谷の樹木に囲まれた湿潤なる風景、胎内回帰志向とでも申しましょうか?
※ケッペンの定義によれば、日本は寒帯、亜寒帯、温帯、熱帯まで幅広く分布するが、大部分が温帯・温暖湿潤気候である…とされています。
以上、灯台下暗し、室町時代にお膝元の岐阜県にこの種の庭園が存在したことに、新鮮な面白さとある種のカルチャーショックを感じたものです。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
飛騨市役所 〒509-4292 岐阜県飛騨市古川町本町2-22 電話番号:0577-73-2111
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話(代表) 03(5253)4111
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
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