皇太子殿下に鵜飼をご説明(左隣は細江茂光(前)岐阜市長)
御料鵜飼・皇室の鵜飼御視察
「御料鵜飼」とは、宮内庁式部職鵜匠としての職務で、禁漁区である「御料場」で、皇室に納める鮎を捕る鵜飼のことです。鵜飼シーズン中に8回行われます。漁のみで観覧客のいない「平御料」と、宮内庁が駐日外国大使・公使夫妻などを招待して鵜飼を見せる「本御料(外交団接待鵜飼)」の2種類があります。外交団接待鵜飼では、鵜飼観覧船の両側に鵜舟がついて狩り下ることもあるほか、御料場の下流で総がらみが行われたりするなど、通常の鵜飼とは一味違います。
御料場では、皇族方による鵜飼御視察もあります。近年では、1997(平成9)年に天皇皇后両陛下が、2005(平成17)年に秋篠宮(あきしののみや)同妃両殿下が、2012(平成24)年に皇太子殿下が鵜飼をご視察されました。
皇室専用の御猟場(ごりょうば)、現在の「古津の御料場」 清流長良川の左奥に見えるのが金華山・岐阜城
鵜飼の歴史
鵜飼のあらまし
美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に「鵜養部目都良売」の記述(正倉院宝物)
鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。
日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説、日本と中国で別個に発生したとする説があり、定かではありません。各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、7世紀初めに中国で成立した『隋書』「東夷伝倭国条」や、8世紀に日本国内で成立した『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。
長良川鵜飼のはじまり
美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としていた集団の出身と推定されており、長良川鵜飼が1300年以上の歴史を持つとする由来となっています。
室町時代になると、将軍足利義教が墨股川(長良川)で鵜飼を観覧したという記録や、前関白太政大臣の一条兼良が現在の岐阜市鏡島の江口付近で鵜飼を観覧したという記録が見られます。
信長公の愛した鵜飼
鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。1568(永禄11)年6月上旬、武田信玄の使者である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が、信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約に伴い、祝儀の進物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねました。岐阜来訪から三日目、信長は秋山伯耆守を鵜飼観覧に招待しました。この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じています。また、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も、捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりするなど、信長流のおもてなしが最大限に発揮されていました。
将軍家の保護を受けた鵜飼
「長良川上覧鵜飼図」
(狩野晴真筆/江戸時代後期/岐阜市歴史博物館蔵)
1615(元和元)年、大坂夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子が鵜飼を観覧したと伝えられています。その際食した鮎鮨を気に入ったのでしょうか、同年、将軍家への鮎鮨献上が始まりました。同時に、鵜匠には川の自由な航行や、冬に鵜の餌を求めて餌飼(えがい)をすることが認められるなど、さまざまな特権が与えられました。
1646(正保3)年、初代尾張藩主徳川義直の鵜飼上覧を皮切りに、歴代尾張藩主による長良川鵜飼の上覧が慣例とされてきました。
また、1688(貞享5)年6月、松尾芭蕉は岐阜を訪れ、弟子とともに鵜飼を観覧しました。
その時に詠んだのが「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」です。
天皇家の鵜飼
明治時代の鵜飼の絵葉書(岐阜市歴史博物館蔵)
1878(明治11)年、明治天皇の岐阜巡幸中に随行した岩倉具視らが鵜飼を観覧し、天皇に鮎が献上されました。
このころから、岐阜県は宮内省(現在の宮内庁)の管轄の中でその庇護を得ようと考え、宮内省に対して、皇室専用の「御猟場(ごりょうば)」と、管理官の「監守」、御猟場で漁をする公式な役職としての「鵜匠」の設置を願い出ました。その結果、宮内省は1890(明治23)年、長良川流域の3か所を御猟場(現在の御料場)と定め、通年の禁漁区としました。同時に、鵜匠は宮内省主猟寮に所属し、ようやく安定した地位を得ることができました。
世界に誇る長良川鵜飼へ
1922(大正11)年、イギリスのエドワード皇太子が長良川鵜飼を観覧しました。その他にも、国内外の賓客が多数、長良川鵜飼を観覧しています。世界の喜劇王チャールズ・チャップリンは、1936(昭和11)年と1961(昭和36)年の2回長良川鵜飼を観覧しており、「ワンダフル!」を連呼し、鵜匠を「アーティスト」と呼んだとも伝えられています。
現在長良川鵜飼は、毎年10万人を超える観光客が鵜飼観覧を楽しんでいます。昭和40年代には、30万人を超える観覧者数を記録したこともあります。
このかけがえのない日本の宝を世界の宝に、そして未来へと継承していくために、岐阜市は長良川鵜飼のユネスコ無形文化遺産登録を目指しています。
鵜匠と鵜の絆
鵜匠の格式
ぎふ長良川鵜飼 鵜匠家の屋号
ぎふ長良川鵜飼では、現在6名の鵜匠が活躍しています。彼らは、宮内庁の儀式・交際・雅楽に関する職務を行う「式部職」のうち、「鵜匠に任命する」という辞令を受けています。「宮内庁式部職鵜匠」に任命されているのは、全国でぎふ長良川鵜飼の6名と小瀬(おぜ)鵜飼の3名の合計9名のみです。
6件の鵜匠家には、それぞれ屋号があり、鵜匠同士互いを屋号で呼び合うことが多くあります。鵜匠は、誰もが就ける職業ではありません。鵜匠家に生まれた男性しか就けない「世襲」であり、1家に1人です。病気や死亡などの理由で、先代の父が引退すると、息子がその跡を継ぎます。
鵜の特性
鵜は、カツオドリ目ウ科の水鳥の総称です。ぎふ長良川鵜飼では、カワウよりも体が大きくて丈夫なウミウを使います。現在、茨城県日立市十王町の伊師浜(いしはま)海岸で野生のウミウが捕獲され、各鵜匠家に届けられています。届けられたばかりの鵜を「シントリ」と呼びます。
鵜は、人に懐き、人が扱いやすい鳥です。また、視力が優れています。さらに、逃げる時、喉にためた魚を吐き出して飛び去ります。こうした特徴や習性が、鵜を使うヒントになったという説があります。鵜が視界に入る魚を可能な限り捕える鵜飼は、他の漁法に比べて魚の捕り逃しが少なく、効率的と言えます。また、鵜がくわえると魚が一瞬で死ぬので、脂が逃げず鮮度がいいと言われています。
鵜飼の一日
朝、鵜匠は鳥屋に行き、鳥屋籠から鵜を1羽ずつ取り出し、喉や腹に触れて、体調を把握します。鵜が快適に過ごせるよう、鳥屋の掃除も定期的に行います。
夕方、鵜匠は再び鳥屋に行き、その日の漁に連れて行く鵜を選ぶと、鵜籠に入れます。そして、鵜舟に乗り込み、「まわし場」という鵜飼が始まるまでの待機場所に向かいます。出漁間際に、6艘の鵜舟が出発する順番をくじで決め、鵜飼漁が始まります。
鵜飼漁では、まず鵜舟と鵜飼観覧船が並走して、川を下りながら漁をする「狩り下り」を行います。狩り下りを終えると、鵜舟は再び川を上り、6艘が川幅いっぱいに斜めに広がり、同方向へゆっくり下りながら漁をする「総がらみ」を行います。
鵜飼漁を終えると、鵜を鵜籠に戻します。鵜の腹をさすって食べ方の足りない鵜に餌を与えることもあります。これを「あがり」と呼びます。あがりを終えると、篝火を川に落とし、家に帰ります。鵜を鳥屋籠に戻して休ませ、鵜飼の一日が終わります。
鵜飼の一年
鮎供養
鵜飼シーズンが始まる前と終わった後には、鵜の検診が行われます。獣医師が鵜匠家をまわり、全ての鵜の体重測定と血液検査、予防接種を行います。
5月11日、鵜飼シーズンが開幕します。鵜飼開きに捕れた初鮎は、皇室に献上したり、明治神宮や橿原神宮、岐阜市内の神社などに奉納したりします。
鵜飼シーズン中、予定された休日は、中秋の名月の一日のみ。悪天候の場合を除き毎日繰り返し鵜飼が行われます。その間、鮎供養や長良川祭り、八幡祭りなど、様々な行事が行われます。
10月15日、鵜飼シーズンが閉幕します。シーズンオフには翌年に備えて、松割木や腰蓑などの道具を準備します。また、年末年始の贈答用に鮎鮨を作ります。
鵜とともに生きる
清流長良川の鵜飼 鵜匠と鵜は「家族」です
鵜匠は常に、鵜のことを大切に思って行動します。「鵜匠にとって鵜の存在とは何か」と聞くと、鵜匠たちは「家族」「兄弟」「子ども」「孫」「相棒」などと答えます。共に生活し、一生懸命漁をする毎日を積み重ねていく中で、鵜匠と鵜との間には絆が生まれます。
年老いて漁ができなくなり、鵜飼を引退した鵜も、引き続き鵜匠の家で暮らします。毎年、鵜飼シーズンが終わると、鵜に感謝と弔いの気持ちを示して、亡くなった鵜の供養が行われています。鵜匠の鵜に対する愛情。きっとそれが鵜に伝わるからこそ、鵜は毎日頑張って魚を捕ってくれるのでしょう。絆で結ばれている鵜匠と鵜が織り成す鵜飼は、見る人々の心を魅了してやみません。
国重要無形民俗文化財
ぎふ長良川鵜飼は、平成27年3月に「長良川の鵜飼漁の技術」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。農林水産業に関わる技術の指定は日本初です。
無形民俗文化とは、日本の風土の中で生まれ、現代まで受け継がれてきた無形の文化財です。わが国にとって特に重要であるものが、国の重要無形民俗文化財に指定されます。
鵜匠と鵜と船頭さんの三位一体の阿吽の呼吸が大切である
[文化財の特色]
鵜飼漁には、漁師自らが川に入って徒歩で行う徒歩(かち)鵜飼と船に乗って行う船鵜飼があり、船鵜飼は鵜の扱い方から鵜に縄をつけて操る繋ぎ鵜飼と鵜を放って行う放ち鵜飼に分けられる。我が国では、徒歩鵜飼と船鵜飼での繋ぎ鵜飼が広くみられ、前者から後者へ展開する中で、多くの鵜を扱えるようになったとされる。
本件は、船鵜飼での繋ぎ鵜飼にあたり、他地域の繋ぎ鵜飼と比べて操る鵜の数が多いことから、最も発達した鵜飼漁として技術の変遷の過程を示している。
また、川面を照らすために篝火を用い、鵜匠の継承も厳格に行われるなど、伝統的な技術を伝えており、地域的特色も顕著である。(「文化庁資料より」)
本日は故郷の岐阜・清流長良川の鵜飼いをご紹介いたしました。
まだ開幕したばかりです。是非お出かけください。
開催期間
5月11日~10月15日
ただし、鵜飼休み及び増水等で鵜飼ができない日は中止となります。
鵜飼時間
19:45頃(時季やイベントにより変動があります)。
公共交通機関
JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から
岐阜バス「高富行き」「市内ループ線左回り」など長良橋経由路線で20分片道210円。
バス停「長良橋」下車、徒歩1分ほど。
マイカー
(1)東海北陸自動車道岐阜各務原I.Cから国道21号、156号を北進、岩戸トンネル出口を左折、鵜飼い大橋手前を左折、金華山トンネルを出てすぐ岐阜公園堤外駐車場(1回300円)。徒歩5分ほど。
(2)東海北陸自動車道一宮木曽川I.Cまたは名古屋高速一宮東I.Cから国道22号、156号を北進、岩戸トンネル出口を左折、鵜飼い大橋手前を左折、金華山トンネルを出てすぐ岐阜公園堤外駐車場(1回300円)。徒歩5分ほど。
※長良橋南行き方面から鵜飼観覧船事務所方面は右折禁止です。交通規制に従って通行ください。
※土・日・祝日は金華山トンネル西側出口から堤外駐車場へは右折禁止ですので、ご注意ください。
お問い合わせは
岐阜市鵜飼観覧船事務所〒500-8009岐阜市湊町1-2TEL:058-262-0104
協力(順不同・敬称略)
岐阜市役所 〒500-8701岐阜市今沢町18番地 代表電話:058-265-4141
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話(代表)03(5253)4111
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ZIPANG TOKIO 2020
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鎹八咫烏
伊勢「斉宮」の明和町観光大使
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