はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
作谷沢は清らかな湧水と桜の園と・・・祈りの里
まんだらの里の不思議な話
朝霧が立ち込める玉虫沼。
月の青く光る夜に水底を覗くと、玉虫姫の姿が見えるとの言い伝えが…
朝霧が消えると美しい景色が現れる。室町時代の後期に時の城主・武田信安が灌漑のため、家臣につくらせた人造湖です。これも、湖に身を投じたという玉虫姫のいたずらかも…
"まんだらの里"の名付け親は故烏兎沼宏之(うとぬまひろし1929~ 1994)氏であります。氏は山形県出身。山形師範学校卒業後、直ぐに着任した先が、この作谷沢小学校教員でした。その後県下各地の配置転換を重ね、定年間近になって、最終勤務地が再び作谷沢の小中学校校長として戻ってこられるという、非常に珍しい経歴の持ち主でした。
それも当初からこの土地に潜む何か?を感じ取り、一目惚れされたようで、以降、自ずとこの土地の成り立ちや由来に関して多くの歴史書や郷土史、伝説や民話、民具、祭祀用具等の収集及び、聞き書きしながら県下を歩き回られました。
その結果、特筆すべき事実を突き止めたのです。其れこそが遥かなる昔(中世)に、この土地は、他所者を決して寄せ付けない修験道の行場だったこと…即ち禁足地であり聖域として隔絶された空間だったことを直観しました。
斯くして氏の研究は進み、佳境に入ったばかりの頃、前掲の東北芸術工科大学が開学し、私は31年間勤務した通産省の国立研から転勤したばかりで、一ヵ月も経たない時期に山辺町主催で夕方からの座談会に招かれ、当日は朝から山辺町職員の案内で町内全ての地区を一日かけて巡る機会を得たのです。
自然環境に恵まれた東北芸術工科大学。
周囲の四季折々の景観は学生たちの創造力を養ってくれます。
山辺町の居住区は平野部に基幹産業であるニット産業地帯、その上層の高台に果樹園を中心とする農家集落が集中しており、その他は山間部の僅かな傾斜台地を持つ里山地区で、林業その他の兼業農家の集落になります。それらは白鷹山という、一つの大きな山の東面に点在しています。
この山辺町には全部で5地区ある中で、最後の訪問先となった作谷沢地区は白鷹山の中腹に存在しました。
湧水の里
登山口から暫くすると今は山形市に含まれる滝平地区を抜けると、いきなり、人家は途絶え、急峻な山道を紆余曲折の繰り返しが続きます。それは突然、峠に差し掛かると、思い掛けない盆地が開けて、異次元の景観が出現するのです。それは他地区と比較しても、不自然に孤立した場所柄でしたから。しかし、予想に反してこの作谷沢とは大変な土地持ちで、更に3つの土地区分(簗沢、北作、畑谷)があり、それ等3地区名の一字づつを採って合成された地名が「作谷沢」だったのです。
標高994mの白鷹山を頂点としながら、この盆地には更に2つの美しい神奈備型(かんなびがた=ピラミッド形)の東黒森山と西黒森山が目に飛び込んで来ました。
山形市東側より西の白鷹丘陵に落日寸前に浮び上がる白鷹山(三峰中央の山)を遠望する。
私はこのとき、「あ〜此処は神の宿られる土地ですね〜‼」と、呟いたことを鮮明に覚えています。その訳は私が生まれた当時、流行した"はしか"に罹り、仮死状態だったので、誰しもが殆ど諦めの境地だったそうです。なので、"被爆体験"とは別に、常にあの世とこの世の境目を往来する特殊な虚弱体質だったこともあり "見えない物" を視たのだと思います。
それから間もなく氏との御縁が出来たことは言うまでもありません。
此処に前記のご著書から抜書きした、その素晴らしい散文詩をご紹介しましよう。
―「まんだらの世界の民話」のプロローグから―
「白鷹山(虚空蔵山)」
置賜・村山両郡の境にあり、大山なり。堂は置賜郡にあり。北のふもとは村山郡畑谷村なり。その北の両方に大峰あり。俗に機巧森(はたしもり)と呼ぶ。 一に黒森とも言う。 西は胎蔵界を表し、東は金剛界を表し、容相同じと言えり。この所、置賜郡に通ず。俗に境の虚空蔵という。
宝暦十二年(1762)に書かれた「出羽国風土略記」を補う目的で、寛政四年(1792)筆写された「けい補出羽国風土略記」にはこのように書かれてある。
胎蔵界と金剛界、両界まんだらの世界がここに存在したことをはっきりと示している。
山のてっぺんのまんだら世界。
ここは、
山紫秀麗(さんししゅうれい)なる山そのものが神仏である。森々たる風物一つに精霊神怪がこもる。
ここには、
狩猟、採取の暮らしを護り、衣食住の材料を与え、灌漑水をもたらし、風雨を支配する山の神や水の神が鎮もる。
こここそは、
山に生きる者たちの共有の郷。周りに住む人たちの原風景たる地文。
これは、
神仏も人間も、動植物も共存している山里まんだらの物語である。
ー烏兎沼宏之『まんだら世界の民話』筑摩書房1988よりー
そうしてもう一つ、付け加えねばならない重要なことがあります。彼らはおそらく、地名学者や山岳信仰、虚空蔵信仰、産鉄民俗学者、東アジア文化研究者等の論説を眺めると、概して渡来系の修験者が、この地を聖域として守っていた事が推察できるのです。
烏兎沼氏が発見した驚くべきまんだら世界小宇宙の配置図
烏兎沼氏によれば、
―白鷹山と東黒森山の山頂を線で結んで延長すると雷山(いかずちやま)につき当る。今度は、白鷹山と西黒森山の山頂を結んで延長すると、不思議なことに三宝荒神のある丸森山にぶつかる。白鷹山から雷山まで約4850メートル、白鷹山から丸森山までも約4850メートル、ほとんど同じと言ってよい。雷山と丸森山の間は約2750メートル、これを直線で結ぶと、きれいな二等辺三角形が描かれる。雷山と丸森山のちょうど中間点に印をつけてみると、虚空蔵(白鷹山)の南側中腹にある勢至堂に重なる。
(中略)
雷山から神山までも約4850メートル、丸森山から神山までも約4850メートル、全く同じである。白鷹山から神山までの直線距離は、約、9300メートルである。こうして実にみごとな菱形図形が地図上に出現したのである。
(中略)
そして、作谷沢地区の神社仏閣と民家が全てこの菱形の中に存在し、菱形の四つの辺がこの世とあの世を区別する境界となっている。― この菱形の中心部の勢至堂は作谷沢小中学校や、公民館(ふれあい自然館)の辺りである。
桜の古木と木造の校舎がよく似合う。
ここに佇み、いったいどれだけの子供たちの姿を見守ってくれたろうか・・・感謝
小さな村にしては異常な数の宗教遺蹟が多く、中世以前は修験道、中世以降は庶民信仰の里として位置付けられた、いわば 聖域、祈りの里だった。
ここ迄きて、紙面が尽きてしまいました。
この続きは次の機会でお目に掛かりたく ・・・
【寄稿文】 日原もとこ
東北芸術工科大学 名誉教授
アジア文化造形学会顧問(初代会長)
風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾塾長
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