ZIPANG-2 TOKIO 2020〜今年のイベントに大注目‼️〜「本年"まんだらの里 雪の芸術祭"は28年目を迎えました。 ~山形発~ 【寄稿文】まんだら塾長 日原もとこ(前編)」

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


昨日は、南の大地から「雲仙」の冬の風物詩をご紹介しましたので、今回は、北の小さな雪国の里山 「山形の作谷沢」から「まんだらの里"雪の芸術祭"」の寄稿文をご紹介いたします。

霧氷か真白な雪のような花火ですね~流石に雪国ならではの花火です。


まんだらの里"雪の芸術祭"2019

まんだらの里"雪の芸術祭"は平成4(1992)年から始まり、本年で28年間続いたことになります。
先ずは、地元の小中学校の生徒と作谷沢3地区の地元民によるマンダラの意味を探りながらグループ作品を作り上げます。


今年は特にこのお祭発足当初から山形県を代表するアーティストのご常連御二方が久方ぶりの顔合せという大変珍しい貴重な機会となります。

奉納儀式の舞い

このまんだらの里・雪の芸術祭で最も大事にしていることは、開会式にあたり、たった15分間という短い時間を使って、此処の土地神様、仏様、ご先祖様にお祈りが捧げられます。この奉納儀式の舞いを28年前から携わられた元祖舞踏家、森 繁哉氏、そして室内プログラムでは全国的に名を馳せるシンガーソングライター須貝智郎氏のコンサートが行われるという超豪華版です。
加えて、開学30年の歴史の期間中、元芸工大最大の名物アーティスト、幸村真佐男教授 (こと、北洛師門氏)のご参加です。


会場の外では豊富な雪を使った地元民、小中学生達の造形作品が中心となり、創り上げられた不思議な幻想的世界がロウソクの灯火によって浮かび上がります。

いかにも子供らしい雪像ですね。

この屋外で次々と繰り広げられるイベントの中で、人々は祈りを託した色とりどりのスカイランタンを打上げ、何処までも天高く上り、最後には暗黒の空に吸い込まれるまで、何時までもその軌跡を負い続け、その行末は?誰も知らない、神秘の世界に酔いしれるのです。

愛のスカイランタン。

片や、白一色に覆われた白銀の田畑や山々と、漆黒の天空に二分された背景に打ち上げられた花火は参加者全員を暫し、華麗な色彩によって不思議なまんだらの世界へと引きずり込みます。(トップの写真参照)


ご期待下さい ‼ 



〜私がまんだらの里 作谷沢に足を運ぶ理由〜


そもそもこの里との馴れ初めは、1991年、私が東北に始めて創設される東北芸術工科大学が山形の地で開学の運びとなり、それに伴って31年間勤めたつくばの国立研を中途退職して、こちらの大学で人生初めての教鞭を取ることになったのです。


さて、この転職に対して当初躊躇いは勿論ありました。それは恥ずかしながら冷え性の私は何が苦手かと問われれば、真っ先に"寒いこと"なのですから。(笑)


勿論それは何十もあった理由のうち、この雪の芸術祭だけは30年間は持ち堪えたい〜‼️その一念で山形の地に腰を下ろしてしまいました。


では何故ご当地を選んでしまったのか?と問われれば、日本列島でも西南に位置する広島生まれの当時7歳だった私は、原爆体験のトラウマを抱えていたからだと思います。


未来永劫、木も草も生えないとされた広島ー爆心地の記憶


1945年、8月6日午前8時15分広島市中心部原子爆弾炸裂。
続いて8/9には長崎市において原子爆弾炸裂。
そして、その6日後の8月15日、日本降伏、終戦の日を迎えます。

日本国民は初めて耳にする天皇陛下の「終戦詔書」といわれる玉音放送を正座し頭を垂れて聴いたのです。所謂終戦宣言でした。日本は原爆を契機に敗戦を悟りました。


私は原爆投下時を挟んで2年間だけ家族ぐるみで5km離れた市郊外に疎開していた為、幸い命には別条はなかったのですが、物凄い爆風と人工的に放射能を核にした黒い雨を全身に浴びました。(詳しくは別の機会に譲る予定です…) その後、父親は会社再建の為に市中に戻り、私はそれに伴い小学校2~4年生時は市内の小学校を転々と移りながら、5~6年生時を広島市中心部に存在した本川小学校に転校したのです。


その小学校とは、あの原爆の世界的シンボルとなった原爆ドームの川向かいに建てられていました。 当時のドームはなんの囲いもなく剥き出しの残骸として晒された姿であり、それを同じく瓦礫に囲まれた校庭やガラスの無い吹き晒しの教室の窓から眺める毎日でした。それが原爆投下地点に一番近い教育施設としての鉄筋コンクリートの建築物が(爆心地点から410mの本川小学校でした。


小学校を卒業すると更に繁華街に近いプロテスタント系のミッションスクール広島女学院中等部へと進学します。


中学、高校一年の学期末まで通学したコースは、太田川に掛かった全国的にも珍しいT字形の相生橋西方向を背にして渡る手前が本川小学校、そして渡り終わった地点が原爆ドームです。その横を通り過ぎると、約1km北東方向が目的地でした。

爆風で橋の全ての欄干が倒れています。

原爆投下後、焼け野原となった広島市は一面焼け焦がれた瓦礫が道の両側に積み重なった侭放置され、川沿いには多くのバラック状態の家並みが所狭しと立ち並んでいました。瓦礫はコンクリートや鉄筋、ガラスの破片等が3000℃~4000℃の熱で溶融固化し、その粉砕されたブロックの断面は灰色と錆色と褐色を呈した残骸です。全く生命を失った環境色の中の通学でした。


中心市街地が徐々に活気を取り戻し始めたのは戦後7~8年も経た頃ではなかったでしょうか? 復興してはきたけれど、最も感受性の豊かな思春期にあって、最も欠乏したのが、街路樹や庭木類の環境色が皆無だった点でした。実際、巷間では「原爆跡には未来永劫、木や草は生えんそうな」という噂がず〜っと、つき纏っていたのです。 (実際は、そんな事はなく、線路脇に生える強靭な鉄道草と呼ばれた 二階建ての屋根迄届く程に生命力の強い植物が生えてきたのです。その学名もキク科のオオアレチノギク。それだけが活き活きと他を圧して蔓延っていたのでした。私はこの排他的でたおやかさに欠ける棒立ちの太い茎に、少しも愛情を感じられずに過したのです。)  

キク科のオオアレチノギク。

生きるエネルギーを失う死んだ環境色とは?


振り返れば、戦前の広島は瀬戸内海を南に面した丁度良いサイズの穏やかで平和な人口30万程度の中都市でした。


しかし、物心ついてからというもの、ずっと戦時下にあり、自然だけは豊かで美しかった記憶がありますが、鮮やかな色のついた寝具衣類等は店頭から消えて、毎日継ぎ接ぎだらけの穴の空いた肌着、ヨレヨレの質素な同じ制服ばかり着ていたのです。


身の回りから色というものに対する固定観念が、鈍黒色、暗赤色、灰褐色、染みだらけの白、茶褐色、褪せた藍色に囲まれた生活環境でした。


店頭で手に入らない寝具は配給制で配られる冷たく重たい国防色※1)の毛布類でした。それは人毛が織り込まれたとされた所為か、少しも暖かくなく肌にチクチクする重たいだけの不快な寝具でした。


※1)国防色とは、カーキ色のことで、今では若者に人気のベトナム戦争でも用いられた迷彩色の軍服基調色。それは沈んだ黴び色一色でした。 華やかなものは一つとして存在せず、例外として祭礼や花嫁衣装等代々着古した昔の染物を他人様が着る機会を逃さずワクワクしながら愛でること位でした。


現代のように、赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)の色相が存在するなど、誰も知らない世界だったのです。 華やかなものは一つとして存在せず、例外として祭礼や花嫁衣装等代々着古した昔の染物を他人様が着る機会を逃さずワクワクしながら愛でることくらいでした。


〜緑という色彩(生命の原点)への渇望〜


今にして、何故この土地に定着したのか?連々自己分析すると、その深層心理の諸元には、やはり、この「緑への憧れと飢え」から出発しているようです。緑ならば広島だつて、山奥は緑だらけです。否、日本列島は山国と言う程、他国から羨望の的になる位、緑豊かな国ですのに…
視覚人間の私にとって、緑とは、酸素と同じ、必須の生命維持媒体だと思います。


何故まんだらの里の緑は特別なのか?  


確かに此処の緑は特別に美しいのです。しかし、何処にもそれは人それぞれの視点が有りますよね?


実は此処には"緑+∂ " があるからです。ではこの"∂" とは? ・・・ 多分、現代人には此れが目に"見えない存在"である筈です。これぞ"まんだらの里"なのです。早く申せば、神も仏も人も一緒に住める土地…として昔の先祖がその謎々を遺していたのです。だから、確とした証拠は有りませんが、私は過去30年近くの関連する資料や現地調査を通じて、幾つかの手掛かりを示す事ができます。


今や、人々は猫も杓子もバーチャルなメディアを通じて、共通する価値観が成立する、実存主義的世界に生きています。


しかし、特に雪国の人々は昔から半年近くの間、豪雪に縛られ、 バスも通わない土地柄でした。
平野部から比べると異常に伝説や民話が多いのです。……

厳寒の旧作谷沢小学校体育館。まるで時が止まっているようだ…

美しいそば畑と緑の山々・・・水彩画を想わせる空の色。作谷沢には民話の世界が広がる…


何故ならば、降り積もった雪で、二階の窓から出入りを余儀なくされる程に遊ぶ広場も奪われ、長期間閉ざされた環境に退屈極まりない子供たちには、お婆ちゃんたちの出番です。苦心して土地の風物からイメージした創作話を語って聴かせたものでした。それが伝説となり、民話でもあったようです。


続く・・・



【寄稿文】 日原もとこ

東北芸術工科大学 名誉教授
アジア文化造形学会顧問(初代会長)
風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾塾長


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ZIPANG-2 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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