先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
「妻籠宿の家々の灯りがともる瞬間が何とも言えない感動を覚える」
公益財団法人 妻籠を愛する会会長 小林俊彦氏
妻籠宿の満開の桜の花びらが一斉に舞い上がる瞬間。暫くすると石畳が桜の園に…
「この桜吹雪が見えねぇ~のか!」ご存知遠山の金さんの名台詞。妻籠桜はそれ以上‼
うだつの町並みには音もなく時が流れている…妻籠宿
妻 籠 の 歴 史
妻籠の自然環境
木曽谷の西南端部に位置する妻籠は、南北に連なる約 6km の細長い山峡の村です。
妻籠城跡・・・城山から望む妻籠宿
この山峡を北流し、木曽川に注いでいる蘭(あららぎ)川とその支流の男埵(おたる)川の形成するわずかな河岸段丘に、1km におよぶ妻籠宿(標高 420m 前後)を中心に、いくつかの集落が点在しています。
大妻籠
妻籠宿保存地区内の一地区にあります。街道端に袖卯建(そでうだつ)をもつ出梁作(だしばりづくり)と言われる民家が軒を並べています。
妻籠宿から大妻籠へ更に馬籠宿へとつづきます。中山道は大妻籠をすぎ、下り谷をすぎると人家はとだえ、森の中の山道がつづきます。
大妻籠の八剣神社の枝垂れ桜近くには、県宝の藤原家住宅があり、民宿の敷地内ですが、どなたでもご自由に見学する事ができます。
県宝の藤原家住宅では季節に合わせた、その季節ならではの飾り付けが見られます。
妻籠の先史時代・・・縄文の跡
妻籠の地には、古くから人の住んだ跡が残されている。妻籠宿周辺からは中世の遺物が発見されています。
妻籠の古代 ・・・古代吉蘇路の道筋として
古代吉蘇路が開通したのは、今から1297年余前の和銅6年(713)である。そのことが『続日本記』に記されています。
これは、大宝2年(702)に官道として整備された神坂峠の東山道が険しく、通行に難儀をする事や、越後国の情勢変化により、そこへの直路として、吉蘇路を整備した記事であります。
妻籠の中世・・・妻籠氏について
永享 4 年(1432)、室町幕府は美濃国守護土岐持益に命じて、御廐(うまや)材木を妻籠兵庫助に出させています。これが妻籠氏初登場。妻籠氏の名が再び史料の上に現れるのは、それから100年ほど後の天文2年(1533)のことであります。
この年に、京都醍醐寺理性院の厳助僧正は、文永寺(現飯田市南原)へ下向する途中、妻籠に1 泊しています。当時の妻籠氏は木曽氏の一族であると記されています。
京都醍醐寺理性院 唐門
世界遺産「醍醐寺」
伽藍は山上と西麓の平地に分かれ、山上伽藍は874年(貞観16)に、平地伽藍は904年(延喜4)に整備が始められたと伝えられています。その後何度も火災にあい、16世紀末から17世紀初頭にかけて現在みられる姿に復興されました。951年(天暦5)に建立された五重塔は、年代が明らかな建物のなかでは京都に現存する最古のもので、初層内部に両界曼陀羅を描き密教寺院としての特色をみせています。現在、国宝である山上伽藍の薬師堂、清瀧宮拝殿、平地伽藍の五重塔、金堂、三宝院の殿堂表書院、唐門、特別史跡特別名勝である三宝院庭園のほか、9棟1基の建物が重要文化財に指定されています。
「文永寺 石室 五輪塔」
鎌倉/弘安6年(1283)〈石室〉 石造、切妻造 (弘安6年の刻銘がある)
〈五輪塔〉石造五輪塔2棟飯田市下久堅南原
<指定年月日>昭和5年5月23日文永寺重要文化財
五輪塔は優れた形であり、石室内にあった関係で創建当時の鎌倉時代の様式をよく伝えていて貴重。さらに例の少ない石室を伴い、鎌倉時代の銘文が刻まれている点において、その史的価値は高い。
妻籠の中世の交通~ 妻籠城(県史跡)・妻籠関所について
妻籠城跡は、その縄張り・位置等からみても、木曽に残る山城の中で屈指のものです。江戸時代の記録によると、その起源を木曽家仲や家村に求めています。
天正12年(1584)の妻籠城の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康の小牧長久手の戦いの一環として行われたものであり、信濃に関していえば、信濃から秀吉色を一掃するために、家康の武将菅沼定利が高遠の保科、諏訪の諏訪、 飯田の小笠原の諸軍を率いて、秀吉方についた木曽義昌を攻めた戦いであります。
この時に、ここに立て籠った守将は山村良勝であります。この戦に、良勝に従った者の中に島崎監物(妻籠・馬籠等の島崎氏の先祖)をはじめ、丸山・林・勝野・鮎沢等、南木曽地区の村役人層の先祖の名があります。
「妻籠関所」は、武田氏が天正年間 (1573~1592) に、番所を設置したように、この地には、古くから関所(番所)があったとされています。この地は古代からの吉蘇路と伊那や飛騨の丁度十字路にあったからであります。
また、豊臣秀吉は、天正18年(1590)に天下を統一すると、徳川家康を江戸へ移封するが、その一環として、木曽義昌も下総国網戸(現千葉県)へ移すのでありました。そ して、木曽を直轄地とし、犬山城主石川光吉を木曽代官に任命しました。光吉は、この妻籠に拠って、木曽を支配していたのであります。
豊臣秀吉画像(部分)
江戸時代 享保6年(1721) 狩野随川邦信筆
名古屋市指定文化財 木下家資料 秀吉清正記念館蔵華麗な甲冑を着用した秀吉像を、秀吉の正室高台院の義理の曾孫(ひまご)木下秀三が追善のため狩野派の絵師に描かせたもの。甲冑(色々威二枚胴具足・いろいろおどしにまいどうぐそく)とともに木下家に伝来した。
慶長 5 年(1600)の関ヶ原の戦の際、徳川家康に召し出された山村・千村氏等は、東山道筋を関ヶ原に向かう秀忠軍の尖兵として、木曽を平定しました。彼等も妻籠城の修築を行って、この城を美濃攻めの拠点としていました。木曽氏一族の馬場昌次が秀忠に謁見したのは、この妻籠城においてであると記されています。
中山道「妻籠宿~大妻籠~馬籠宿」地図
続く・・・
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鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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