このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
瑞泉寺の再建に端を発し,宮大工の鑿 (のみ)一丁から生まれた華麗にして豪壮な井波彫刻と,その木彫刻職人たちが造りあげたまち井波。彫刻工房と町家が軒を連ねる石畳の通りには、木槌の音が響き,木々の薫りが漂う。通りには至るところに七福神や十二支などの木彫刻が飾られ、まちはさながらに木彫刻の美術館のようです。
春には井波彫刻で飾られた曳山や屋台,獅子舞がまちを練り歩き,地域の安泰や五穀豊穣を祈ります。
地域の暮らしに根づく井波彫刻は,その高い技術力や芸術性を広く全国から認められ,今や日本の木彫刻文化の護り手となっているのです。
井波彫刻の町並み、メインストリート八日町通りの両側には井波彫刻の工房が軒を連ねる。
正面は井波別院瑞泉寺(山門、本堂)
井波八幡宮で行われる「井波よいやさ祭り」(獅子頭は井波彫刻)
5月2日は前夜祭、3日が本祭り。他府県からも訪れ、大勢の人たちで賑わう。
天保4年(1833)、商売繁盛・家内安全を祈願する神事として始まった祭り。 大人が担ぐ神輿は3種類あり、子ども神輿と合わせて6つの神輿が町内を練り歩き、3つの獅子と4つの屋体とともに町内を賑わせます。担ぎ手が約10kmを巡行する様、そして井波彫刻の技が光る獅子頭も見どころです。
井波彫刻とは~由来・歴史
現代の名工 卓越技能日本一 井波彫刻「野村清宝」
井波彫りの欄間は枠よりも中の景色が外に飛び出してより立体的に見える。その代わり厚い板をわざわざ削り込んでいるため恐らく手間は倍以上かかるのでは・・・
井波彫刻の由来
明徳元年(1390年)本願寺五代綽如上人(しゃくにょしょうにん)は、後小松天皇の勅許(ちょっきょ)天皇より命令が下ることにより井波別院を創設したが、いく度か焼失しそのつど再建されました。
特に江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣され、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎について彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりであります。
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門(ちょくしもん)菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされています。
以後、その門流が江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていました。
明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開きました。
昭和に入ってからも、寺社彫刻は活発で、東本願寺・東京築地本願寺・日光東照宮など全国各地の寺社・仏閣の彫刻を数多く手がけ、それと並行して一般住宅欄間・獅子頭など・置物にも力が注がれました。
現在、名工らの子孫によって受け継がれてきた伝統ある「井波彫刻」は時代の流れとともに豪華さを誇った寺社彫刻から民家の室内彫刻へと多くは移り変わっており、なかでも住宅欄間はその主力となっています。
昭和22年に井波彫刻協同組合を結成し、昭和50年には通産大臣より伝統的工芸品の指定を受けました。そして現在では伝統工芸だけでなく、日展などへの作家活動も盛んに行われています。
過去250年にわたって、培われてきた技術の集積がいま伝統となって欄間をはじめ獅子頭・天神様・衝立・パネルなどの中から窺うことができます。
井波彫刻の歴史
井波別院瑞泉寺「山門」総檜の重層入母屋造り(重要文化財)。
楼上には釈迦三尊の木像を安置しています。
左上:瑞泉寺の防火・防風壁「大楼壁」/右上:山門に残る「雲水一疋龍」/
左下:太子堂の手挟み彫刻 /右下:勅使門に残る「獅子の子落とし」
明徳元年 (1390) 本願寺五代綽如上人越中国井波に瑞泉寺を建立する。
天正9年 (1581) 瑞泉寺、佐々成政の兵火に罹り焼失する。
文禄3年 (1594) 前田利長公から、井波大工10人に居屋敷米を扶持される。(井波拝領地大工) その後、伏見城の普請、関ヶ原の合戦などにおいて加賀藩の御用をつとめる。
慶長16年 (1611) 瑞泉寺の諸堂、井波拝領地大工の手によって再建され、荒彫りの彫刻を施す。
宝歴12年 (1762) 井波大火、瑞泉寺類焼する。
安永3年 (1774) 瑞泉寺再建、井波拝領地大工が京都本願寺御用彫刻師前川三四郎から、彫刻の技法を本格的に習得する。
文化1年 (1804) 京都彫刻師前川三四郎、瑞泉寺山門正面唐狭間雲水一疋龍を彫刻。
明治初期 (1870代) この期より、一般住宅欄間等の新分野を開拓、彫刻を専業とする者が現れる。
明治12年 (1879) 瑞泉寺本堂、太子堂を焼失する。
明治18年 (1885) 瑞泉寺本堂竣工する。
明治19年 (1886) 岩倉理八、京都本願寺より彫刻主任に任命される。
大正3年 (1914) サンフランシスコ万国博覧会に出品の初代大島五雲作書院欄間が名誉金賞を受賞する。
大正7年 (1918) 瑞泉寺太子堂竣工する。
■この頃より彫刻師は多くの門弟を養成、従事者数は飛躍的に増え始める。
昭和6年 (1931) 3月、井波彫工会員により台北西本願寺別院彫刻完成。
昭和8年 (1933) 東京築地本願寺の彫刻に18人の井波彫刻師が参加する。
昭和17年 (1942) 11月、富山県木彫刻協同組合を創設、理事長綿貫佐民。
■井波彫刻は堂塔建築と結んで発展し、欄間、置物さらに衝立、パネル等に活路を開き民間からの需要が増加する。
■商工省工芸展、文展等に出品、入選者が現れ工芸作家が台頭する。
■戦争の激化と共に苦難の道をたどるも、伝統技術を守り現在に伝える。
昭和22年 (1947) 7月、富山県木彫刻工業協同組合を設立。 井波彫刻技能者養成所を開設する。(現訓練校)
昭和50年 (1975) 通産省から「伝統的工芸品」として指定を受ける。
昭和52年 (1977) 名称を井波彫刻協同組合に改める。
昭和54年 (1979) 井波彫刻伝統産業会館、井波木彫刻工芸高等職業訓練校が完工する。
平成3年 (1991) いなみ国際木彫刻キャンプ開催、世界12カ国より参加。
平成5年 (1993) 井波彫刻総合会館完工する。
■この道一筋に技能の研鑽につとめ、大臣表彰、褒賞、叙勲を受けた名工が多く出る。
■日展を始め、各種の中央、地方展の入選者80名を数え、日展審査員賞、会員、評議員等の有名作家も多く輩出、美術工芸品としての評価が高まる。
■井波彫刻に魅せられ、全国各地から入門する若者が続き、今では彫刻技術者300人を超え全国一を誇る産地として発展し、現在に至る。
トピックス
平成30年5月24日「日本遺産」として
「宮大工の鑿(のみ)一丁から生まれた木彫刻美術館・井波」
が認定されました。
平成30年6月8日(金)名古屋城本丸御殿完成公開。
本丸御殿の欄間はすべて井波彫刻にて制作。
名古屋城と本丸御殿「尾張名古屋は城で持つ」
名古屋城本丸御殿正面
名古屋城本丸御殿「上洛一之間」井波彫刻欄間最高傑作おめでたい「鶴の図」
名古屋城本丸御殿に使用されている井波彫刻欄間の数々
名古屋城本丸御殿の彫刻欄間はすべて井波彫刻にて制作されたものです。
名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所(所在地.愛知県名古屋市)は、「ものづくりの技、心、自然環境の大切さ」を後世に伝える一大文化事業として、江戸期最先端技術の粋を集めた近世城郭御殿の最高傑作「名古屋城本丸御殿」の10年に及ぶ復元計画を進めてきました。
2018年6月8日(金)の完成公開でその全容がお披露目されました。
「名古屋城本丸御殿」は、尾張藩主の住居かっ藩の政庁として、1615 (慶長20)年に徳川家康の命によって建てられた、日本を代表する近世書院造の建造物で、総面積3 , 100 ㎡、木造平屋建こけら葺き書院造、13棟の建物で構成されています1930 (昭和5年)には天守閣と共に、城郭として国宝第一号に指定され屈指の名城として知られていたものの、1945 (昭和20)年の空襲により建物の全てを焼失。
しかし幸いにも焼失を逃れた、1049面の障壁画、309枚の実測図、約700枚の写真、約2000個の礎石など、他に例を見ないほどの豊富な史料が保管されており、様々な分野の専門家の協力を得て2009年1月から待望の復元工事に着手し、2018年の江戸幕府将軍(三代将軍家光)が宿泊するために建造された最も豪華絢爛な「上洛殿」などの完成をもって、10年をかけた復元計画を終えました。
現在一般公開をしています。
交通アクセス(富山県南砺市)
鉄道
JR東京駅(北陸新幹線)~JR新高岡駅(城端線)~JR城端駅(約4時間30分)
JR大阪駅(北陸本線)~JR金沢駅(北陸新幹線)~JR新高岡駅(城端線)~JR城端駅(約5時間)
JR名古屋駅(東海道新幹線)~JR米原駅(北陸本線)~JR金沢駅(北陸新幹線)~JR新高岡駅(城端線)~JR城端駅(約5時間)
JR金沢駅(北陸新幹線)~JR新高岡駅(城端線)~JR城端駅(約1時間30分)
JR富山駅(北陸新幹線)~JR新高岡駅(城端線)~JR城端駅(約1時間30分)
車
東京都内 練馬IC(上越・富山経由 関越・上信越・北陸・東海北陸自動車道) ~南砺(約5時間30分)
東京都内 高井戸IC(高山経由 中央・長野・国道158号・東海北陸自動車道) ~南砺(約6時間)
名古屋 名古屋IC(名神・東海北陸自動車道)~南砺(約2時間30分)
大阪 吹田IC(福井・金沢経由 名神・北陸・東海北陸自動車道) ~南砺(約4時間)
金沢IC(北陸・東海北陸自動車道)~南砺(約30分)
飛行機
羽田空港~富山きときと空港(レンタカー)~南砺(約2時間)
羽田空港~小松空港(レンタカー)~南砺(約2時間20分)
新千歳空港~富山きときと空港(レンタカー)~南砺(約2時間30分)
高速バス
3つ星街道バス 金沢駅~五箇山(約1時間)1日6往復
きときとライナー 名古屋駅~五箇山・城端(約2時間30分)1日6往復
路線バス
南砺金沢線バス 金沢駅~井波(約1時間15分)1日6往復 世界遺産バス 高岡駅~城端(約50分)1日5往復
井波彫刻バス 城端~井波(約25分)平日5往復、土・日・祝日4往復
続く・・・
追憶 ~懐かしい風景~
南砺市合掌の里「菅沼集落」秋茅刈り
富山市の総曲輪、金沢市の寺町、福井市の大手町を拠点にして、富山県・石川県・福井県を回遊していた頃は、まだ北陸自動車道もなく、移動するのに渋滞も多く時間がかかったものだ。
しかし、その分だけ高速道路で突っ走るよりも、謂わば新幹線から在来線に乗り換えた如く、ユックリズムで、それぞれの町や村の景色、土地の匂いを肌で感じることができたと思う。
そのお陰か土地名を聞いただけで、記憶が鮮明に蘇り、土地勘と言えるものなのか?今の仕事にも大いに役立っていることを実感する。
その後、北陸自動車道ができてからは、目的地到達は一足飛びで便利になりはしたけれど、緊張を強いられて、景色など愛でる隙などあるものではない。前方の車との車間距離、時々覗き見るバックミラーで、後方車の動きを確かめる。道幅は広く舗装も快適でつい、スピードが出てしまいがち、単調な景色は刺激もなく、頭の中は一刻も早く目的地入りすることばかり…
富山や福井から石川県境に入ると知らず知らずにアクセルを踏み込んで仕舞う。 白状すれば、若き日は懲りないスピード違反常習犯だった。何度切符をきられた事だろう(苦笑)今ならとっくに免許停止ものである。
思えば人間の瑞々しい感性が磨かれるのは、人間(五感の)のリズムに合わせた環境設計にあるような気がしてならない。
俳聖、芭蕉の奥の細道は大変な旅程であったと言われるが、現代人の方がずっと生理現象に逆らって生きているような気がする。
もう一度のんびりと在来の道路を走り、懐かしい風景を味わいたいものである・・・
そう言えば、どんな田舎でも、人々が道を歩いていたような気がする。
道とは人が歩く為のものだったんだ〜
懐かしい人たち「インターネットで拝見。今もお元気そうで安心しました!でも、少し老けられたようで?だらな‼ え、お互い様、そうですね~また、いつか伺います」
総曲輪(そうがわ)・寿司栄
鎹八咫烏 記
伊勢「斎王」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
井波彫刻協同組合 〒932-0226 富山県南砺市(井波)北川733Tel(0763)82-5179
南砺市役所 ブランド戦略部〒939-1596 富山県南砺市苗島4880番地 TEL:0763-23-2014
(一社)南砺市観光協会 〒939-1842南砺市野田1058-1 TEL 0763-62-1201
名古屋市役所 〒460-8508 愛知県名古屋市中区三の丸三丁目1番1号 電話:052-961-1111
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話(代表)03(5253)4111
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