このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風21号並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
前回のテーマ「武神・神功(じんぐう)皇后【寄稿文その7】」から約5か月たち桜の花の季節からいつしか対馬の景色は秋色に変わろうとしてます。まさに観光日和です。今後はピッチを上げて古代から続く対馬の神社仏閣などのご紹介をして行きたいと思います。
胡禄神社 琴崎
祭神はワタツミ系の海神ですが、対馬での伝承では、顔に貝類などが付着して醜い姿をしているとされる、大海原に潜む海の神「磯良」(いそら)ともされています。
パワースポットブーム以降、「神社」(建物)ばかりが注目されがちですが、実はその先にある、古くからの大自然そのものが信仰の対象だったのです。
対馬は古代から、そんな雄大な自然が満ち溢れる、荒々しく、激しく、美しい島だったのです。
その昔、琴崎の神様と黒島(美津島町)の神様がケンカして、琴崎様は岬にあった竹を投げつけ、黒島様は島にあった松を投げつけたので、琴崎には竹がなく、黒島には松がないそうです。
金色の蛇の伝承とか、海底に竜宮城の入口があるとか、伝説もいろいろ。
上対馬町の琴崎(きんざき)で神功皇后の船は2回目の嵐に遭遇。船が破損しますが、海神・磯良(いそら)が大きなアワビを貼り付けて応急処置。どんなでかいアワビなんだ。
いかにも、海底から海神が登ってきそうな雰囲気。船で海から参拝するか、琴の集落奥にある胡禄御子神社の拝殿横から800mほど山道を歩かないとたどり着けません。
海神 イソラ
【日本神話】
イソラ(磯良)は、志賀島(しかのしま。福岡県)を拠点とした古代の海洋民族・安曇(あずみ)氏の祖神です。記紀には登場しませんが、中世の「太平記」では、海底に棲む精霊として描かれ、神功皇后の三韓出征の際に招かれたものの、海藻や貝が顔にはりついて醜いことを恥じて現れず、住吉の神が舞を奏したところそれに応じて参上し、神功皇后の水先案内を務めたとされています。
【対馬の伝承・異伝】
イソラは豊玉姫の子とされ、ウガヤフキアエズと同一視されています。
和多都美神社(番号63)の社殿前の干潟には、亀のウロコのような亀裂があるイソラエベス(磯良夷)と呼ばれる霊石が祭られています。
また、神功皇后の出征に関連し、厳原町阿須(あず)で皇后を出迎えたとか、上対馬町琴(きん)・琴崎沖で沈んだ碇を潜水して取りもどした、損傷した船の傷口に大きなアワビを貼りつけて応急処置した、上対馬町五根緒(ごねお)に上陸した、などの伝承があります。
琴崎は海神にまつわる伝承が色濃く、海底には「竜宮の門」があり、亀に乗ったイソラがその門を出入りするとか、琴崎大明神(=胡禄神社、番号124)の御神体は海神の祭日である3月3日に、巫女が磯ですくいあげた金色の小蛇だとされています。
胡禄神社(ころくじんじゃ)
【祭神】 表津少童命 中津少童命 底津少童命 磯武良
【所在地】 長崎県対馬市上対馬町琴1番地(琴崎)
(※琴の集落奥にある胡禄御子神社の拝殿横から800mほど山道を歩くと琴崎です)
胡禄神社
神社番号 124 式内社(名神大社)
周辺の神社 胡禄御子神社(125)
上対馬町琴(きん)集落に鎮座する上対馬町琴(きん)集落に鎮座する胡禄御子神社右横の山道を800m歩きます。途中の分岐点を直線すれば琴崎灯台、左折すれば琴崎方向です。御子神社右横の山道を800m歩きます。途中の分岐点を直線すれば琴崎灯台、左折すれば琴崎方向です。
周辺の雰囲気・環境など・神社のプロフィール
胡禄神社の鳥居は海に向いて立ち並び、眼前には対馬海峡の大海原が広がり、対馬の原始的な海神信仰の雰囲気を今に伝えています。神島である黒島様とのケンカの際、竹を投げつけたので竹が無く、松が残ったという伝説があります。
亀卜(きぼく)の伝承 イカツオミ
【日本神話】
神功皇后 仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰(たけのうちすくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者(さにわ)としました。(日本書紀)
【対馬の伝承・異伝】
神功皇后の外征を支えたのは、個性的で有能な家臣たちでした。特にイ カツオミ(雷大臣)は、皇后の凱旋後に対馬に留まり、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされます。イカツオミはまず豆酘(つつ)に住み、次に阿連(あれ)に移り、加志(かし)で生涯を終え、加志の太祝詞神社 (番号56)横に墳墓(中世の宝篋印塔)があります。
豆酘には亀卜が残り、加志の太祝詞神社は名神大社であり、阿連は「対馬の神道」の著者・鈴木棠三から「対馬神道のエルサレム」と称されるなど、イカツオミの痕跡が色濃く残されています。名称に「雷(霹靂)」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、全島に分布しています。
コラム 占いの変遷
古代において、作物の豊凶や天変地異、病気の蔓延等は、統治者の重要な関心事でした。場合によっては、統治者がその責任を負い、処刑されることもあったのです。
日本では、古くから鹿の肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)が行われていました が、対馬には5世紀頃、亀の甲羅を用いる亀卜が大陸から伝来していたようです。
律令時代(7世紀後半~)には、国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用され、伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国卜部(さんごくうらべ)が占いの職能集団として朝廷に仕え、重視されました。政祭一致の時代、対馬は占いのみならず、政治的な影響力も保持していたのです。
平安時代になると安倍晴明などの陰陽師(おんみょうじ)が活躍するようになり、さらに鎌倉時代になると武士が台頭し、対馬の卜部は力を失いますが、亀卜は対馬藩の公式行事として幕末まで存続しました。
ちなみに、亀卜に使うウミガメの甲羅は、阿連の大野崎沖で獲れるものが最上とされ、逆に佐護・木坂・豆酘沖のものは使わないなど、厳格なルールがあったようです。豆酘の亀卜は形を変えて現在も行われ、国の無形民俗文化財に指定されています。
豆酘には、神功皇后の重臣「雷大臣」(いかつおみ)をまつる雷神社があります。古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)を対馬に伝えたとされる人物で、厳原町阿連(あれ)の雷命神社、美津島町加志の太祝詞神社の祭神でもあります。
雷神社(いかづちじんじゃ)
【祭神】 雷大臣命
【所在地】 長崎県対馬市厳原町豆酘2852番地
雷神社
神社番号 27 式内社
亀卜神事 旧1月3日
周辺の神社 多久頭魂神社(21)ほか
厳原町豆酘(つつ)の西を流れる乱川横の小道を北上すると、板状の石でできた橋と小さな社殿があります。
周辺の雰囲気・環境など
豆酘は亀卜や赤米神事など独自の伝承・習俗に彩られた集落です。南端の豆酘崎は東シナ海に突き出した岬で、遊歩道が整備され、対馬海峡の広大なパノラマが眼前に広がります。
神社のプロフィール
亀の甲羅を用いる占いの起源は、約3000年前に滅亡した中国最古の王朝・殷(いん)とされ、現在でも旧暦の1月3日、雷神社で神事が行われています。
神事の奏上の言葉から、俗にサンゾーローまつりとも呼ばれます。
太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)
【祭神】 太詔戸神
【祭神(別資料)】 雷大臣命
【所在地】 長崎県対馬市美津島町加志512番地
太祝詞神社
神社番号 56 式内社(名神大社)
周辺の神社 敷島神社(55)
県道24号線から美津島町加志(かし)集落に入り、川沿いの道を森の奥にむかって約2㎞進むと、右手に鳥居・社殿が見えてきます。
周辺の雰囲気・環境など
美津島町加志は、対馬の中央に広がる浅茅湾(あそうわん)の南西部に位置する農村です。
霊峰・白嶽の西麓にあり、集落からその秀麗な山容を拝むことができます。
加志浜では初春、海藻のアオサが手摘みで収穫され、対馬の風物詩のひとつとなっています。
神社のプロフィール
イカツオミおよびその祖とされる太祝詞神(アメノコヤネ)を祭る、加志集落の奥に鎮座する名神大社です。イカツオミは豆酘・阿連・加志に足跡を残しており、阿連・加志の宮司はその子孫とされる橘氏で、対馬卜部の本流と言われています。
【寄稿文】西 護
一般社団法人 対馬観光物産協会 事務局長
協力(敬称略)
一般社団法人 対馬観光物産協会
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしまTEL 0920-52-1566 / FAX 0920-52-1585
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